尼子氏・織田氏との戦い
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永禄8年(1565年)から始まる月山富田城の戦いにおいて、従兄弟の毛利輝元と共に初陣を飾った。その後も父・元春に従って山陰各地で尼子勝久や山中幸盛ら尼子氏残党との戦いを繰り広げる。永禄13年(1570年)2月14日の布部山の戦いで武功を挙げ、同年2月18日に祖父・毛利元就に武功を賞された。また、その後は末次城、熊野城、三笠山城等の攻撃に父・元春と共に加わったが、元就が病に倒れたため、同年9月5日に父・元春を出雲に残し、輝元、隆景、元長らは安芸国へ帰国した。 元亀3年(1572年)、治部少輔に任じられる。また、同年7月26日に山内隆通の嫡男である山内元通と兄弟の契約を結ぶ。 天正元年(1573年)に元長と改名し、父と共に山陰に出兵する。天正元年(1574年)には所領に万徳院を建立した。同年因幡国に進出した尼子残党の征伐を行なったが、尼子残党は執拗に再起を繰り返した。しかし天正6年(1578年)の上月城の戦いで、尼子勝久や山中幸盛らを自刃させもしくはこれを処刑し、禍根を断つことに成功している。天正9年(1581年)には織田信長方の羽柴秀吉に攻囲された吉川経家が籠る鳥取城の救援に向かったが、兵力差のために手出しができず、元春率いる本隊を待ちきれずに鳥取城が降伏し、吉川経家は自刃した。 天正10年(1582年)6月、本能寺の変を契機として羽柴秀吉と毛利氏が和睦すると、秀吉への姿勢において輝元・小早川隆景と元春の間に差が生じたため、元春は12月20日に隠居し、以後は元長が家督と吉川氏に伝わる什宝を継いだ。翌天正11年(1583年)7月12日には、輝元から3万貫の地を与えられる。
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