少青年時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/17 04:05 UTC 版)
「ルイス・ウィグフォール」の記事における「少青年時代」の解説
ウィグフォールはサウスカロライナ州エッジフィールドに近いプランテーションで、リーバイ・デュランとエリザ・トムソンのウィグフォール夫妻の子供として生まれた。父はエッジフィールドに来る前にはチャールストンで成功した商人だったが、1818年に死んだ。母はフランスのユグノーであるトレゼヴァント家の出身だった。母はウィグフォールが13歳の時に死んだ。兄のハムデンは決闘をして殺された。もう1人の兄アーサーは聖公会教会の司祭になった。 ウィグフォールは1834年まで保護者の家庭教育を受け、その後コロンビアにある特権階級子弟のための士官学校、ライスクリーク・スプリングス学校に1年間通った。その後バージニア大学に入学した。この期間に他の学生から受けた侮辱がもとで、ウィグフォールが行うことになる多くの決闘の最初のものが起こったが、この時は平和的に解決された。 1836年、ウィグフォールはサウスカロライナ・カレッジ(現在のサウスカロライナ大学)に入学して学業を完成させようとしたが、出席状況は安定しなかった。法律に興味を抱き、討論クラブに出席し、学生の権利に関する論文を書いた。しかし、この学生時代の大半は学業よりもキャンパスの外にある居酒屋で過ごされた。ウィグフォールはフロリダ州での第三次セミノール戦争に参戦するために3ヶ月間学業を放り出し、志願兵の中尉の階級を得た。このような回り道はあったが、ウィグフォールは1837年に大学を卒業した。その最も親密な友人と考えられた同期生にジョン・ローレンス・マニングがおり、後にサウスカロライナ州知事になった。 1839年、ウィグフォールはエッジフィールドに戻り、兄弟の法律実務を引き継いだ。この時期に遺産を浪費し、飲酒や賭け事の性癖もあって、負債が増えていった。勝手気儘な生活様式を維持するために友人から金を借り、はとこで将来の妻となるロードアイランド州のシャーロット・マリア・クロスからも借りた。シャーロットとは1841年に結婚した。しかし、田舎の弁護士としての「単なる事務仕事」ではその気性にも目的感にも合わず、期待したほど利益を生まないことが分かった。
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