少数派コミュニティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 19:36 UTC 版)
「アンコーナ共和国 (11-16世紀)」の記事における「少数派コミュニティ」の解説
アンコーナには、ギリシア人、アルバニア人、ダルマチア人、アルメニア人、トルコ人、ユダヤ人のコミュニティがあった。 16世紀、アンコーナはヴェネツィアと同様に、オスマン帝国商人を重要な取引相手と見なすようになった。アンコーナで最大の外国人商人コミュニティはギリシア人のもので、彼らは15世紀末から16世紀末にかけて、オスマン帝国に征服されたビザンツ帝国領やヴェネツィア領から逃れてきた難民であった。16世紀初頭、約200家族からなる最初のギリシア人コミュニティが生まれた。その大部分は、イオニア諸島やエピルスなど北西ギリシア出身だった1514年、ヨアニナのDimitri Caloiriという者が、エピルスのヨアニナやアルタ、アヴロナといった都市から来た商人にかかる関税の引き下げを勝ち取った。1518年、アヴロナから来たユダヤ人商人が、すべての「トルコ人に従属するレバントの商人」にかかる関税引き下げを勝ち取った。 1531年、正教徒やカトリック教徒のギリシア人たちからなるギリシア信者会 (Confraternita dei Greci) が設立され、サンタ・アンナ・デイ・グレキ教会の使用権と、ギリシア典礼とラテン典礼の両方を用いる権利を獲得した。サンタ・アンナ教会は、13世紀に古代ギリシア都市の城壁の遺構を使って「サンタ・マリア・イン・ポルタ・チプリアーナ」という名で建設された教会だった。 1534年、教皇パウルス3世はレバントから様々な出自や宗教を抱える商人たちが活発に活動している状況に好意を示し、彼らが家族と共にアンコーナに定着することを認めた。1535年にアンコーナを訪れたあるヴェネツィア人旅行者は、この街が「あらゆる国々から集まった商人たちでいっぱいで、その大部分はギリシア人とトルコ人である」と書き記している。16世紀後半、イタリア各国や教皇が閉鎖的な方針をとるにつれて、アンコーナのギリシア人をはじめとするオスマン帝国領出身の商人は数を減らしていった。 ギリシア人内の正教徒とカトリック教徒は頻繁に抗争を起こし、これは1797年にイタリアに侵攻してきたフランス軍がアンコーナを占領し、あらゆる宗教信者会を閉鎖させてギリシア人コミュニティのアーカイブ文書を没収するまで続いた。フランス軍は1805年にも戻ってきてアンコーナを再占領し、1806年までとどまった。1822年、サンタ・アンナ・デイ・グレキ教会が再開された。1835年、すでにギリシア人正教徒がいなくなったこの教会は、カトリック教徒の者になった。
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