少女ファン、エリンとの交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 00:19 UTC 版)
「リッキー・ヘンダーソン」の記事における「少女ファン、エリンとの交流」の解説
ヘンダーソンから「ナンバーワン・ファン」と認められた白人少女、エリン・ステーツが球場で観戦を開始したのは彼女が5歳の時、1989年だった。この年の6月22日に両親がオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムの左翼席のシーズン席を購入してエリンを初めてMLBの試合に連れて行った。その日はちょうどヘンダーソンがヤンキースからトレードされて、古巣のアスレチックスに復帰した日でもあった。左翼手として守備位置につくヘンダーソンに「ハーイ、リッキー」と声を張り上げたが、彼の耳には届かなかった。そこで次に観戦した時にチームカラーの黄色のボードに「ハーイ、リッキー」と書き込んで高く掲げた。これはヘンダーソンの目にとまり、守備位置につくたびに手を振り、試合終了後にはボールまでプレゼントした。エリン手作りのプラカードは20枚ぐらいあり、プレーごとに「ナイス・プレー」「グレート・ホームラン」などの祝福のメッセージを出した。その中でヘンダーソンの一番のお気に入りは「クール・デュード(クールな洒落者)」だった。1992年に出版されたヘンダーソンの自伝にもエリンのことが触れられている。 しかし、1993年7月31日にブルージェイズがヘンダーソンを獲得し、2人の友情に別れが訪れそうになった。地元紙に掲載されたエリンの「リッキーにサヨナラを言うチャンスすら無かった」というメッセージは直ぐに全米中に報道され、知れ渡った。 「私には契約とかトレードのことはよく分からない。私はリッキーが幾らお金を貰っているのかも知らない。私はまだ子供だから、そんな事には興味が無いの。私が興味があるのは彼のプレーだけ。ママに私の部屋のポスターや写真を外してくれるように頼んだわ。観るのがとても辛いから。『時間が経ったらそんなに辛くならなくなって、彼の名前を聞いても泣かなくてすむようになるわ』とママが言ってくれたけど。もしリッキーに会う人がいたら、彼にオークランド・コロシアムの左翼席でボードを持っていた少女が会えなくて寂しがっていると伝えてくれないかしら。そして、私がサヨナラと言っていたと伝えて。私にはサヨナラを言うチャンスも無かったの」 このエリンの手紙は直ぐにトロントにも配信され、手紙を読んだヘンダーソンも思わず涙ぐんだという。2人が再会したのはブルージェイズがオークランドに遠征した時で、全米中から報道陣が殺到した。ヘンダーソンがむせび泣くエリンを抱きしめている写真の説明には「嘘だと言って、リッキー」とある。この話にいたく感動した航空会社の総支配人がエリンとその両親を1993年10月3日のブルージェイズの試合に招待した。この年のオフにヘンダーソンはアスレチックスに復帰。1996年にパドレスへ移籍すると、パドレスは開幕戦でエリンに「1番レフト、ヘンダーソン」の場内アナウンスを担当させた。将来の夢はスポーツキャスターというエリンはその後もヘンダーソンの誕生日には必ず電話を入れていたという。 2001年10月5日にタイ・カッブの通算得点記録2246を破ったヘンダーソンはイニング終了後に観客席まで行き、試合を観戦していた17歳のエリンを抱きしめた。
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