小禄村大嶺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:24 UTC 版)
旧小禄村大嶺は、現在の那覇空港の滑走路や西側の海岸にあった。大嶺(ウフンミ)は、独自のハーリーの伝統や言葉づかいをもち、半農半漁で豊かな集落として栄えた。沖縄戦前に小禄飛行場建設で土地を強制収用、さらに戦後は米軍施設、那覇空港・自衛隊施設として使用されているため、戦後、大嶺の人々は、東側の田原や宇栄原に新しい集落を造った。那覇市字田原にある新部落建設顕彰碑には以下のように書かれている。 昭和23(1948)年当時、旧小禄村の総面積の83%が米軍用地として接収されていた。特に部落全部を接収された字大嶺、鏡水、安次嶺、金城、当間、赤嶺は住む場所がなく、高良と宇栄原に密集して住まなければならない状態であった。時に小禄村の人口は約1万5千人、3世帯同居も珍しくなかった。 戦災のため自分の字に戻ることも出来ない人たち(借地人)と地元字民とのトラブルが起こり、村議会では村民全体の融和と民生安定をはかる立場から真剣に打開策を検討した。その結果昭和28(1953)年、関係5字によって新部落建設期成会が結成された。 小禄長田原、不知嶺原の土地3万5千坪の買収が行われたが、そこは畑地と原野で占められた丘あり谷ありの起伏の激しい土地であった。現在の大嶺付近は小高いやまで、間には水溜まり(池)があった。当間の東側一帯は小禄一の高いやまがあり、また鏡水付近は小高くなって安次嶺との接点付近は絶壁であった。 工事は難渋が予想されたが村当局と期成会が一体となり、当時の米民政府、米軍、琉球政府農林局に陳情を重ね、ついにその機械力投入によって、昭和33(1958)年、宅地造成、区画整理が完成した。 宅地は抽選で字別に区分され、各人に分け与えられた。このように立派な住宅地が出来上がったのも、多数の関係者のご努力とご協力の賜物である。記念事業年にあたり新部落建設関係者の皆様に対し深く感謝の意を表すると共にその勇挙を伝えるためにここに新部落建設顕彰碑を建立するものである。 平成6(1994)年3月吉日 新部落期成会 沖縄県立埋蔵文化財センターは平成27年から28年にわたって那覇空港新築工事等に伴う「大嶺村跡」の発掘調査をおこない、その結果をまとめている。
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