小倉謙 (警察官僚)とは? わかりやすく解説

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小倉謙 (警察官僚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/12 15:13 UTC 版)

小倉 謙(おぐら けん、1911年 <明治44年> 4月21日 - 1977年 <昭和52年> 7月23日)は、日本内務警察官僚。第64代警視総監位階従三位勲二等旭日重光章

経歴

病院長・小倉金作の長男として名古屋市で生まれる。台湾新竹州立新竹中学校愛知一中第一高等学校を経て、1935年3月、東京帝国大学法学部を卒業。1934年10月、高等試験行政科試験に合格。1935年、内務省に入り内務属として警保局保安課に配属。

1937年7月、地方事務官として大分県に赴任。以後、大分県地方課長、鳥取県警察部特別高等課長、内務事務官内務大臣秘書官などを歴任。

戦後1945年10月、終戦連絡中央事務局の終戦連絡官(政治部治安課長)に就任。調査局第三課長、兼調査局第四課長を務め、1947年12月に廃官となる。1948年1月、総理庁内事局第二局調査課長となり、さらに内事局第一局刑事部犯罪統計課長を務め、1948年3月に廃官。同年同月、国家地方警察本部に転じ、警視・刑事部捜査課長に就任。以後、国家地方警察愛知県警察長、愛知県国家地方警察隊長、愛知県警察本部長、警視庁警務部長を歴任し、1958年9月、警視総監に就任。浅沼稲次郎暗殺事件嶋中事件などの責任を取り、1961年2月に辞職した。

その後、海外技術協力事業団監事農地開発機械公団理事長などを務めた。1977年死去。死没日付をもって正六位から従三位に進階し、勲二等旭日重光章を追贈された[1]

著作・文献

  • 共著 警察研究会編『註釈警察全書』警察時報社、1949年。
  • 小倉謙氏追想録刊行会編『小倉謙 追想録』小倉謙氏追想録刊行会、1979年。

脚注

  1. ^ 昭和52年 1977年8月5日付 官報 本紙 第15171号 11頁

参考文献

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。




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