尉官時代
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地中海方面への遠洋航海から帰国後、海軍少尉に任官した。装甲巡洋艦「出雲」乗組みとして世界一周の遠洋航海に参加する。海軍砲術学校高等科学生を卒業し、戦艦「山城」分隊長となり、主砲発令所長を務める。次いで駆逐艦「松風」砲術長、横須賀鎮守府副官兼参謀となり、在職中に海軍大学校甲種学生(28期)に合格する。首席で卒業した。 詳細は「海軍大学校卒業生一覧#甲種28期」を参照 卒業に際し恩賜の長剣を拝受することになり、その式へ母の出席を認めるよう要望したが、大学側は前例がないとして許可しなかった。横山は母の出席を叶えることができなかった事を終生悔やんでいた。
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尉官時代
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遠洋航海を終えた際、席次は今村信次郎と入れ替わり次席となったが、明治36年(1903年)9月より連合艦隊旗艦「三笠」乗組に任じられ、主砲着弾観測員を務めた。翌年3月に「三笠」砲術長に加藤寛治少佐が着任し、8月10日の黄海海戦でヴィルヘルム・ウィトゲフト提督を爆死させた「運命の着弾」に貢献した。加藤の采配に感動した百武だったが、後に私的な諍いから加藤不信に転じて互いの命運を左右することになる。 黄海海戦後の10月に「韓崎丸」乗組となる。これは戦時のため遠洋航海が行われなかった32期の少尉候補生の実務訓練が目的で、中少尉から成績優秀な士官が選抜され指導官となったためである。12月に「富士」航海士となり、日本海海戦に参戦した。戦後は「千代田」「香取」「富士」の分隊長、「磐城」の航海長を務めて着実に技量を上げていった。明治40年(1907年)に砲術学校特修科、明治41年(1908年)には海軍大学校乙種(首席)、同専修学生、明治44年(1911年)には同甲種学生と、大尉時代は勤務の傍ら学校教育を頻繁に受けている。
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