寡頭制の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 09:19 UTC 版)
寡頭制による国家制度は、王政ローマや共和政ローマにおける元老院が有名である。 互いに戦う部族の族長たちが次第に連合を組むことで、社会は自然と寡頭制的になってゆく。またあらゆる政体の政府はその成長の過程で寡頭制に変化してゆくことがある。もっともありうる寡頭制への変化のメカニズムは、外部からのチェックを受けない経済的な力が次第に集積してゆくことによるものだろう。ポリュビオスほか多くのギリシアの思想家は、貴族制が堕落することで寡頭制になると考えていた。寡頭制は、少数支配する家系のうちの一家が他の家族に対して優越的な力をもつ結果、より古典的な権威主義的政体へと変化してゆくこともある。ヨーロッパの中世後期に成立した君主の多くはこのように成立した。 「黄金の自由」と呼ばれる貴族共和制が成立したポーランド・リトアニア共和国は、貴族のみが国王選挙などの政治に関与できる寡頭制でもあったが、貴族の数は総人口の1割にも達した。フィレンツェ共和国のような中世の都市国家では市民による共和制が成り立っていたが、その中から有力な家族による寡頭政治が発生し、やがてメディチ家に代表される僭主の支配(シニョリーア)が確立するに至った。 寡頭制は時には、君主や独裁者に対して社会の他の階層が、門戸を開いて権力を分け与えるように主張して、過渡期的に成立することにより、変化の手段になることもある。この例の一つは、1215年にイングランドの貴族ら名家が結集して、権力譲渡に気の進まない国王ジョンにマグナ・カルタ(大憲章)への署名を強い、ジョン王の政治力の衰退と初期の寡頭制の存在を暗黙のうちに了解させたことである。イングランド社会の成長に伴い、マグナ・カルタは1216年、1217年、1225年と何度も改正され、より多くの人々により大きな権利を認めさせ、イングランドの立憲君主制への変化を用意した。
※この「寡頭制の発生」の解説は、「寡頭制」の解説の一部です。
「寡頭制の発生」を含む「寡頭制」の記事については、「寡頭制」の概要を参照ください。
- 寡頭制の発生のページへのリンク