宰相任命・帝国の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/11 15:01 UTC 版)
「ズルフィカール・ハーン」の記事における「宰相任命・帝国の改革」の解説
1712年2月、帝国の皇帝バハードゥル・シャー1世が死亡したのち、4人の息子らの間で帝位をめぐって争いが起きたが、ズルフィカール・ハーンは長子ジャハーンダール・シャーを支援した。ベンガル太守のアズィーム・ウッシャーンが最有力候補であったにもかかわらず、兄弟の中で一番出来の悪かったジャハーンダール・シャーが皇帝になれたのは、当時最も有力であった貴族の彼が支援したからである。 ズルフィカール・ハーンはこの功績により、帝国の宰相と財務大臣に任命された。 また、彼は敗者の側についた多数の貴族を財産没収にするかあるいは処刑し、宮廷での自身の立場を確保したのち、帝国のために奔走した。 全権を握ったズルフィカール・ハーンはバハードゥル・シャー1世の治世から悪化の一途をたどっていた財政の改善など、内政面・外政面における帝国の改革に着手した。彼はラージプートやマラーターなどヒンドゥーと友好的な関係を築き、ヒンドゥーを懐柔することが自身の立場を安定させ、ひいては帝国を救済すると信じた。1681年にアウラングゼーブが復活したジズヤは、この年になってようやく廃止された。 ラージプートの間では、マールワール王アジート・シングをグジャラート太守に、アンベール王ジャイ・シング2世はマールワー太守に任命した。これにより、グジャラートとマールワーがラージプートの支配下に置かれることとなった。 マラーターとの間では、1711年にズルフィカール・ハーンが結んだ私的な取り決めを、代理人ダーウード・ハーン・パンニーに再確認させた。その取り決めでは、マラーター王国にチャウタ(諸税の4分の1を徴収する権利)とサルデーシュムキー(諸税の10分の1とは別に徴収する権利)を認めていたが、それは帝国の官吏が徴収し、マラーター側に渡すというものであった。 また、アーグラ付近のバラトプルに依ったジャートのチューラーマン、ブンデールカンドの領主チャトラサールも懐柔した。しかし、1708年以降から対立していたパンジャーブのシク教徒とは講和せず、引き続き反乱を鎮圧しようとした。 また、ズルフィカール・ハーンは、先代バハードゥル・シャー1世によってジャーギールが膨張していたことをみて、それを抑えることで財政改革を図った。軍政面では、貴族や軍人に与えたマンサブ通りに兵員を維持させ、軍隊を維持しようとした。 ただ、ズルフィカール・ハーンが税収の確保のために、イジャーラーと呼ばれる徴税請負制度を設けたことは一つの過ちだった。この制度はアクバル時代の財務大臣トーダル・マルがかつて行ったように、一定の地租を徴収する代わりにその一定額を納める契約をザミーンダールらと結ぶものであった。ズルフィカール・ハーンはこの制度でザミーンダールらに絞れるだけ絞ることを許したため、農民たちはさらに搾取され、より一層の苦しみを与えることとなった。
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