定位銀貨の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 14:54 UTC 版)
江戸時代後半、明和年間の南鐐二朱銀の鋳造を皮切りに、文政年間、幕末の天保・嘉永年間を中心に一分銀、一朱銀など丁銀に対して含有銀量の劣る出目獲得を目的とした金貨単位の名目貨幣が多発され、文政年間以降はこのような定位貨幣の流通が大半を占めるようになった。一方で丁銀の流通は次第に衰退し銀目取引は藩札および手形で代用されるなど名目化した。 また、吹替えの度に起こる旧銀の退蔵や定位銀貨への改鋳に伴う丁銀の払底、あるいは高額な丁銀ではなく小額の銀目取引の必要性から匁銭勘定が行われ、銀札に代えて銭匁札が発行された。 慶応4年5月(1868年)に、明治維新政府は銀目廃止の布令を出し、丁銀は豆板銀と共に流通停止となった。明治元年10月、丁銀・豆板銀(明和五匁銀も含む)は純銀の含有量に応じて金貨単位(両・分・朱)で交換比率が定められ、両・分・朱単位の金貨や銀貨と交換された。その交換は明治7年(1874年)9月に終了し、その後は地金扱いとされたため、直接新貨(円・銭・厘)と交換されることはなかった。 丁銀・小玉銀、および定位銀貨の流通高(定位銀貨は"金"一両を銀六十目に換算)元禄8年(1695年) 157,059貫 宝永3年(1706年) 405,850貫 宝永7年(1710年) 394,175貫 正徳4年(1714年) 777,563貫 元文元年(1736年) 331,025貫 安永元年(1772年) 526,783貫 丁銀 文政元年(1818年) 882,760貫 天保3年(1832年) 1,389,688貫 安政元年(1854年) 1,466,100貫 万延元年(1860年) 3,254,747貫 明治2年(1869年) 3,354,211貫 定位銀貨
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