定位貨幣の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:17 UTC 版)
江戸時代には、小判同様の計数貨幣の金貨として、品位が同等で、量目が正確に小判の.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄4に造られた一分判金がある。 この小判および分金の通貨単位は武田信玄による領国貨幣である甲州金の四進法(両、分、朱)を取り入れたものであった。一分判は、小判の小額貨幣として常に小判と同品位、四分の一の量目でもって本位貨幣的に発行されていた。 一方、文政年間頃から登場した一朱判、二朱判、および二分判などの貨幣は、品位すなわち含有される金の量目が小判に対して額面より少なく補助貨幣的な名目貨幣として発行された。これらも幕府の財政の埋め合わせを目的とした出目を狙ったものであり、幕末にはこれらの定位貨幣が小判の流通額を凌駕するようになっていた。
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