定位銀貨の鋳造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 10:05 UTC 版)
明和9年8月14日(1772年)、川井久敬は銀座人および常是を召出し、南鐐二朱銀の吹方につき申渡した。しかし南鐐は上銀を意味し品位の改めは無用であるとし常是は銀改めを辞退して目方改めのみを担当することとなった。そこで常是は目方を改めた定位銀貨に「定」の極印を打つこととなり以降、南鐐二朱銀、一分銀、一朱銀はすべて定の極印が打たれている。また従来包銀は常是が担当していたが、南鐐二朱銀から銀座が担当する銀座包となり200枚毎の二十五両包となった。これ以降常是の役割は縮小した。 定位銀貨はもっぱら江戸の銀座において鋳造され、次第に鋳造額が増大し文政、天保年間には丁銀の鋳造を圧倒するまでに至った。 定位銀貨は銀を素材とすることから鋳造は銀座が担当したが、これらは「金代り通用の銀」として本来小判の通貨単位のものであり、鋳造法も地金を一定量目になるように切取り、延して極印打ちをするといった、一分判のような金貨鋳造に準ずる工程となった。
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