姫路転封工作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:24 UTC 版)
寛延2年(1749年)、忠恭は前橋から姫路に転封する。 酒井家の前橋藩は財政が極端に悪化していた。酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用、加えて前橋藩領内は利根川の氾濫が相次ぐ土地でありあまり豊かではなく、つまり財政基盤の脆弱さなどが大きかった。そもそも藩庁のあった前橋城は利根川の急流を防御に利用した堅牢な城であったが、その利根川に年々城地を侵食されており、5代藩主忠挙の頃の宝永3年(1706年)には利根川の氾濫により本丸3層の櫓が倒壊している。忠挙は隠居ののちの宝永7年(1710年)、前橋から近畿地方の先進地への国替を幕府に働きかけたが失敗している。しかし、もはや国替により危機を脱するしか方途がないというのがこの後、藩首脳の暗黙の了解となってゆく。 忠恭の頃も同様の状況が続いており、家老の本多光彬や江戸の用人犬塚又内らは、同じ15万石ながら畿内の先進地に位置し、内実はより豊かと言われていた姫路に目をつけ、ここに移封する計画を企図し、忠恭もこの案に乗った。 ところが、本多と同じく家老の川合定恒は「前橋城は神君より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地である」として姫路転封工作に強硬に反対したため、本多、犬塚らの国替え工作は以後、川合を通さずに秘密裏に行われた。 そのような遠くの酒井家の期待とは裏腹にその頃姫路では、寛延元年(1748年)夏に大旱魃が起きたがしかし姫路藩松平家は同年の年貢徴収の手を緩めなかったため、領民の不満が嵩じている中で藩主の松平明矩が11月16日に死去し、11歳の幼い跡継ぎが藩主となることとなった。藩が動揺する中、印南郡的形組の農民が12月21日に蜂起した。この一揆は藩による「家財を売り払っても年貢完納ができない者に関しては、納付を来季まで待つ」という触書によって一旦は収まったが、1月15日に前橋の忠恭と姫路の松平喜八郎(朝矩)の領地替の命令が出されたことで、借金の踏み倒しを恐れた領民は1月22日に再び蜂起し藩内各地を襲撃、その被害は藩内全域に及んだ(寛延大一揆) 一揆は2月には収拾したが、この混乱が尾を引き、酒井家の転封は5月22日にずれ込んだ。藩士の移住はさらに遅れ、しかも7月3日には姫路領内を台風が襲い船場川が決壊、川合は独断で避難民を姫路城に収容し、米蔵から備蓄米を被災者に分け与えた。この時は死者・行方不明者を400人以上も出した。8月にも再び台風が襲い、田畑だけではなく領民3000人余がさらに死亡する大被害を受け、前年と合わせた大被害を受けた姫路領にまともな年貢収入は期待できず、転封の費用も嵩んだ酒井家はつまり、ますます財政が悪化した。 寛延4年(1751年)。川合は本多、犬塚の両名を殺害し、代々の藩主への謝罪状をしたためて自害している。
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