姫路藩大目付として
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1853年(嘉永6年)、昌平黌を去る。1855年(安政2年)6月には好古堂教授、翌年7月には江戸在番に任じられている。 1861年(文久元年)、40歳の時、藩主・酒井忠顕の命により大監察(大目付)に抜擢される。当時姫路藩でも尊皇派と佐幕派の争いが起こっており、1864年(元治元年)には、佐幕派の家老・高須隼人が尊皇派の弾圧を実行する(甲子の獄)。しかしこの際、佐幕派と見なされていたにもかかわらず雲平は大目付として関係者の一律死罪に強く反対し、ついにはその意見を押し通している。 1868年(明治元年)1月、鳥羽・伏見の戦いでは姫路藩は幕府方につき大敗、同月には姫路城に岡山藩の攻撃を受けることとなる。雲平はこの際、砲撃の中敵陣に赴いて恭順の意を伝え、無事無血開城を成功させた。
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