姉小路公知暗殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:37 UTC 版)
「朔平門外の変」も参照 幕府は攘夷派公家の筆頭である実美と姉小路公知の懐柔を図ったが、実美については効果がなかった。一方で姉小路は大坂で勝海舟と議論したこともあり、開国に傾いたという噂が立つようになった。5月20日夜、実美と姉小路は揃って御所を退出し、実美は輿で青蓮院宮邸に向かうために別れた。その後まもなく、北に向かっていた姉小路は朔平門外で暗殺された。実美は青蓮院宮邸を目指して東に向かっていたが、家臣が不審な人物を目撃した。家士の戸田雅楽(後の尾崎三良)は実際の時間より遅い時間を告げて実美に訪問を諦めさせ、帰邸させた。自宅で姉小路遭難の報を聞いた実美は、すぐに姉小路邸に見舞いに向かっている。 姉小路暗殺犯と見られたのは薩摩藩の田中新兵衛であった。長州藩と実美は薩摩藩排除に動き、さらに長州藩が直接朝廷に献金できるよう取り計らった。しかし孝明天皇は実美による薩摩藩排除の動きは「偽勅」であり、早々に実美と徳大寺実則を「早々取除」くべきであると青蓮院宮に伝えている。権勢の頂点にあった実美だったが、薩摩藩の調査によれば、実美は過激派の言動に引きずられて今更意見を変えることもできないと嘆き、脚気がひどくなったこともあって邸に引きこもりがちとなり、「出家遁世したい」とこぼしていたという。
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