姉小路の『変節』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:13 UTC 版)
町田明広は、滋野井と西四辻が暗殺の首謀者であり、田中が実行犯の一人となったと考えることが妥当であるとしている。町田はその根拠のひとつとして、当時から風聞のあった姉小路の通商条約容認への『変節』をあげている。 当時京都に上洛していた将軍徳川家茂が4月21日に摂海(大阪湾)巡視のため大坂へ下るに及び、破約攘夷派の間では、将軍が天皇との攘夷の約束を反故にして江戸へ帰るのではないかという疑念があった。そこで姉小路も将軍の動静を探るため、23日に破約攘夷派の志士たちを帯同して大坂へ下った。しかし大坂で幕府軍艦奉行並勝海舟と会談した。勝は海軍を興して世界に乗り出すべきと唱える大攘夷主義者であり、通商条約容認派であった。世界情勢や海軍の必要性を懇々と説かれた姉小路は、勝の意見に同調し、通商条約容認に傾くようになった。勝は5月1日にも姉小路のもとを訪れて海軍や砲台についての意見を述べた。姉小路は公家の教育機関であり、当時破約攘夷派の志士が多く参加していた学習院で勝つに意見を述べさせようとしたが、姉小路の遭難によって叶わなかった。 5月5日には武家伝奏から幕府に対し、摂海防禦総督の任命や長崎に巨艦を製造するための製鉄所設置命令が行われているが、5月9日になってこれを知った勝は姉小路の影響によるものであろうと推測している。また事件翌日に姉小路暗殺を聞いた勝は「国家の大禍」と大いに嘆いた。5月9日には中山忠能が摂海巡視の間に何かあったのかと正親町三条実愛に尋ねており、姉小路の態度変化は明らかであった。また、同じく破約攘夷派の領袖であった三条も軟化しつつあり、5月12日の村井斉助書簡などでも指摘されている。このため両者が幕府の賄賂によって籠絡されたという風聞が公家や破約攘夷派の間で立っていた。
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