女性初の儀典長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:37 UTC 版)
「シャーリー・テンプル」の記事における「女性初の儀典長」の解説
特命全権大使としてシャーリーは高い評価を受けた。ところが1976年、任期の途中でフォード大統領にワシントンへ呼び戻された。前任者の国連大使昇格に伴い、無所任大使として女性初の国務省儀典長に抜擢された(英語:Chief of Protocol of the United States)。ホワイトハウスの全ての儀式の責任者として、また同時にブレアハウス等のアメリカの迎賓館で全ての国賓の接待を取り仕切る役職に置かれた。さらに大統領が海外を訪問する時は大統領専用機で同行し、大統領の右腕として相手国との折衝をまとめた。三木武夫首相訪米の際は接待の総責任者、また1977年にはジミー・カーター大統領の就任式式典を指揮して任期を終えた。儀典長の手腕も国務省で非常に高く評価され、現在に至るまで最も高名な米国儀典長と評価されてきた。儀典長退任の際、外交官としての功績により特に大使の称号を一生名乗ることを認められた。 1981年のレーガン政権の発足に伴い、ワシントンとパリで大統領就任式の公式祝賀舞踏会が開かれた。パリの舞踏会には夫と共に出席し大統領の名代を務めている。その年、国務省は大使養成機関であるアメリカ外交アカデミー(英語:The American Academy of Diplomacy)を創立し、初代委員のシャーリーは新任の大使とその配偶者を対象に、任地でいかに振舞うべきか、誘拐されたり大使館で爆弾が炸裂したりテロリストに脅迫されたりしたときの対処法など、1989年まで実際的な知識を伝授した。この間シャーリーの教えを受けた大使とその配偶者は146名に及ぶ。 南アフリカ共和国の人種隔離政策アパルトヘイト廃止を目指し、1986年に国務省内で様々な働きかけをし、実現に向けて多くの国際会議で演説をおこなった。これはやがて1980年代後半の国際的な反アパルトヘイトの大きな流れへとつながり、1991年にデクラーク大統領がアパルトヘイト撤廃を打ち出し、1994年、アパルトヘイトは完全に撤廃された。 1987年、これらの功績によってアメリカ史上初の名誉外交官の称号を受ける。
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