奄美移住から後
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名瀬への移住後、1956年12月に、敏雄は伸三・マヤと揃って洗礼を受けた。直後の1957年1月に夫妻は加計呂麻島を訪れ、この年ミホは初の小説『妻よ再びわれに』を執筆している(未投稿となった)。移住後には、マヤが足の麻痺と失語症(発話障害)を発症し、あちこちの病院を受診させている。1959年には『婦人公論』に手記『錯乱の魂から蘇って』を寄せ、実質的な文壇デビューとなる。 ミホは1969年から1973年にかけて、同人誌『カンナ』に短編を投稿し、これに書き下ろし3作を加えて出版されたのが、『海辺の生と死』(1974年)であった。この作品でミホは第3回南日本文学賞(1974年度)、第15回田村俊子賞(1975年度)を受賞した。ふたりの子どもは九州へ進学し、1975年、島尾夫妻は指宿市へと転居する。2年後には、マヤを伴って神奈川県茅ヶ崎市へと移った(1983年まで在住)。1980年に敏雄が日本芸術院賞を受賞した際には、気乗りしなかった夫に代わって授賞式に代理出席した。1983年には、マヤと共に家族3人で加治木町(現:姶良市)へ移り、同年の内に鹿児島市吉野町へ、更には翌年末に同市内宇宿町へと転居を繰り返した。同じ頃、『海』に長編小説『海嘯』を連載していたが、1984年の雑誌休刊後、未完のまま放置されることになった(結局そのまま2015年に刊行)。敏雄は1986年(昭和61年)11月12日に、出血性脳梗塞のため鹿児島市立病院で死去したが、ミホはこの後喪服で通したという。
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