奄美の信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 10:06 UTC 版)
「奄美群島の歴史」も参照 ウナリ神信仰を基盤とした祭政一致社会が古奄美に見られる。奄美群島の島々は平家ゆかりの神社など平家伝説が残っており、平家を祀る神社が多く建立されているが、琉球の源為朝伝説と同様に史実かどうかは定かで無い。「奄美世」においては史料に乏しく、その実態は各史料や伝説に基づく推測の域を出ず、不詳である。 史料で確認できるのは琉球勢力が奄美に及び始めた14世紀以降である。奄美群島南部の沖永良部島と与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力下にあった。この頃(北山世主)から文化や信仰面においても奄美群島(特に南部)と北山の関係は深かったと考えられる。北山の勢力圏では既にノロ制度の原型が見られていた。1416年に北山王国が中山王府に滅ぼされて以降は中山の支配下(「那覇世」)に入った。 那覇世の15 - 16世紀頃、奄美群島北部にも中山王府による征服と支配体制の普請があり、それに伴い御嶽信仰やノロ制度も入ったと見られる。また琉球王国支配下の沖縄諸島、先島諸島ほどに統制は厳しくなく、ユタなどの影響も近世まで色濃く残っていた。 薩摩藩の琉球侵攻により奄美群島の実効支配を喪失(「大和世」)すると、大和の神仏習合的宗教が本格的に流入した。薩摩はキリスト教と浄土真宗(一向宗)以外は弾圧しなかったため、奄美在地の宗教は神仏習合と、従前のノロ、ユタ信仰が混淆したものとなっていた。 葬制は琉球と同様に洞窟での風葬が主体であった。亀甲墓はわずかに見られる。大和世以降は土葬が中心となった一方、遺骸を掘り起こして洗骨し改葬すると言う琉球・沖縄的な慣習も昭和まで残っていた。本土では既に稀な土葬も奄美地方では20世紀末まで残った。 現在でもノロが祭祀を取り仕切る地域がいくつかみられるが、全体的にノロとその祭祀は廃れつつある。
※この「奄美の信仰」の解説は、「琉球神道」の解説の一部です。
「奄美の信仰」を含む「琉球神道」の記事については、「琉球神道」の概要を参照ください。
- 奄美の信仰のページへのリンク