天水会と満鉄会
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「天水会」および「満鉄会」も参照 満鉄社員は総裁以下、1945年9月30日付で全員解雇となった。しかし実際には、現地の鉄道輸送の人員や技術者が不足しており、山崎総裁はじめ旧満鉄社員の多くはソ連や中華民国の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた。これは「留用」と称され、山崎総裁の留用が終わったのは1947年8月、日本の地を踏んだのは同年10月のことであった。ほとんど全ての社員は1948年6月4日を以て留用を終えた。なお戦中の満鉄総裁であった大村卓一は、1945年11月、中国共産党軍のゲリラに逮捕され、暴行を受けたのち獄死した。 しかし、一部は1949年の中華人民共和国建国後も続き、現地から他の地域の鉄道建設へと駆り出された。天水 - 蘭州間の天蘭線(現在の隴海線の一部)はその成果の一つであり、天蘭線建設に従事した人々は、帰国後の1953年に「天水会」を組織した。 一方、日本国内では1946年(昭和21年)、未払い退職手当の支払い、旧社員の就職斡旋などを目的として「満鉄社友新生会」が発足した。その後、1954年(昭和29年)7月に「財団法人満鉄会」に改組し、退職手当支払いとあわせ、満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生、満鉄の資料保有などを行った。満鉄会の会員は最盛期で約15,000人にのぼったが、2016年(平成28年)3月末をもって解散した。
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天水会と満鉄会
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「天水会」および「満鉄会」も参照 満鉄社員は総裁以下、1945年9月30日付で全員解雇となった。しかし実際には、現地の鉄道輸送の人員や技術者が不足しており、山崎総裁はじめ旧満鉄社員の多くはソ連や中華民国の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた。これは「留用」と称され、山崎総裁の留用が終わったのは1947年8月、日本の地を踏んだのは同年10月のことであった。ほとんど全ての社員は1948年6月4日を以て留用を終えた。しかし、一部は中華人民共和国建国後も続き、現地から他の地域の鉄道建設へと駆り出された。天水 - 蘭州間の天蘭線(現在の隴海線の一部)はその成果の一つであり、天蘭線建設に従事した人々は、帰国後の1953年に「天水会」を組織した。なお戦中の満鉄総裁であった大村卓一は、1945年11月、中国共産党軍に逮捕され、暴行を受けたのち獄死した。 一方、日本国内では1946年(昭和21年)、未払い退職手当の支払い、旧社員の就職斡旋などを目的として「満鉄社友新生会」が発足した。その後、1954年(昭和29年)7月に「財団法人満鉄会」に改組し、退職手当支払いとあわせ、満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生、満鉄の資料保有などを行った。満鉄会の会員は最盛期で約15,000人にのぼったが、2016年(平成28年)3月末をもって解散した。
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