大陸前線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 08:36 UTC 版)
日中戦争勃発後、海軍航空隊は中国空軍に苦戦を強いられていた。航空本部教育部長・大西瀧治郎大佐の要請で大村の九六式艦上戦闘機が戦線に投入されることとなり、小田喜一、 高橋憲一各二空曹、半田亘理、稲葉武雄、各一空曹ら5名とその操縦要員に選ばれる。大村からアルトゥル飛行場を経由し、同期生の田中正臣中尉の八九式艦攻の引率で杭州湾の空母「加賀」へと向かった。全員九六式艦戦での着艦の経験がなく、その訓練には一週間ほど要するが、着艦訓練を経ず全機着艦に成功した。8月18日付で空母加賀乗組。以降、南京での空中戦に参加するも、戦果は不明。 9月26日、九六式艦戦の追加受領のため加賀は佐世保に寄港する。10月頭、バイアス湾上陸作戦に投入される。10月7日、韶関飛行場爆撃に向かう九六式艦上攻撃機護衛の九六式艦上戦闘機4機の指揮官として9時50分母艦を発し、陳瑞鈿上尉率いる中国空軍第5大隊第28中隊および暫編第29中隊の5機と交戦。うちカーチス・ホークⅡ(英語版)1機(黄元波少尉操縦、2807号)を撃墜する。部隊では陳上尉以外の4機を撃墜した。新郷は、唯一残った陳上尉と思しき1機より左翼翼端に2発被弾を受け、ただちに追撃したが、飛行場の敵高射砲部隊からの掩護射撃を受け断念した。12月1日、大尉。鹿屋空分隊長。 1938年3月1日、佐伯空付。3月29日、佐伯空分隊長。9月2日、十四空分隊長。1939年2月、戦線で不時着し負傷。同年11月15日、内地勤務になり霞ヶ浦空分隊長兼教官。1940年8月20日、岩国空分隊長兼教官。11月15日、大分空分隊長兼教官。 1941年9月15日、高雄空飛行隊長兼分隊長。10月1日、台南空飛行隊長兼分隊長。1942年4月1日、第六航空隊飛行隊長兼分隊長。5月8日、元山空飛行隊長兼分隊長。
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