大瀬半五郎別人説
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次郎長の生前に上梓された『東海遊侠伝』に「綱五郎、武州の産、初め半五郎と称す」とあり、関東綱五郎は大瀬半五郎であるとみなされているが、藤田五郎によれば、埼玉県八潮市伊勢野の伊勢野天満宮の敷地にある光明寺跡墓地に「侠客大瀬半五郎之墓」があるという。これは、1970年(昭和45年)4月、初代八潮村長であり埼玉県議会議員であった恩田理三郎(1904年 - 1991年)が建立したものである。藤田によれば、「大瀬半五郎」は通称であり本名は大作 半五郎(おおさく はんごろう)といい、縁故者の大作信喜がその墓の荒廃を嘆いており、私財を投じて再建されたものであるという。半五郎の略歴については峯岸光太郎が調査した記録を墓所のある真言宗豊山派光明寺に収めたが、同寺は墓所再建後、1981年(昭和56年)3月末日までのある時期に廃された。同寺跡の近辺に「大瀬」(おおぜ)という地名が残っている。 別人ではなく同一人物であるとするものの、出身を前述の墓所のある地域にする例もある。佃實夫は「大瀬綱五郎は、もとの名を半五郎といい、のち関東綱五郎」と書いているが、その出身地を武蔵国埼玉郡伊勢野村(現在の埼玉県八潮市伊勢野)とする。佃は「隣村大瀬の博徒を斬ったので、人呼んで大瀬の半五郎」と由来を書く。『次郎長三国志』の村上元三は、三代目神田伯山の創作による講談を評して「大瀬の半五郎の件りなど、うまく出来ているが、次郎長の乾分の中には大瀬の半五郎というのはいない。関東綱五郎という乾分がそのモデル」と断定している。小説『関東綱五郎』(1926年)を書いた長谷川伸は「関東綱五郎」を仮名、「大咲 半五郎」(おおさく はんごろう)を本名とし、1881年(明治14年)に伊勢野で病死したとする。長谷川は享年36としており、1846年(弘化3年)生まれとみていることになる。『架空人名辞典 日本編』は、実在するとされている吉良の仁吉、森の石松も掲載しているが、「大瀬半五郎」の項目もあり、別名を「関東綱五郎」として同一視しているが、「江戸神田淡路町の人、鉄砲鍛冶の息子」と記載している。
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