大瀬半五郎別人説とは? わかりやすく解説

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大瀬半五郎別人説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/09 04:03 UTC 版)

関東綱五郎」の記事における「大瀬半五郎別人説」の解説

次郎長生前上梓された『東海遊侠伝』に「綱五郎武州の産、初め五郎称す」とあり、関東綱五郎大瀬半五郎であるとみなされているが、藤田五郎によれば埼玉県八潮市伊勢野伊勢野天満宮敷地ある光寺跡墓地に「侠客大瀬半五郎之墓」があるという。これは、1970年昭和45年4月初代八潮村長であり埼玉県議会議員であった恩田三郎1904年 - 1991年)が建立したのである藤田によれば、「大瀬半五郎」は通称であり本名大作五郎(おおさく はんごろう)といい、縁故者大作信喜がその墓の荒廃嘆いており、私財投じて再建されたものであるという。半五郎略歴について峯岸光太郎調査した記録墓所のある真言宗豊山派光明寺収めたが、同寺は墓所再建後1981年昭和56年3月末日までのある時期廃された。同寺跡近辺に「大瀬」(おおぜ)という地名残っている。 別人ではなく同一人物であるとするものの、出身前述墓所のある地域にする例もある。佃實夫は「大瀬五郎は、もとの名を半五郎といい、のち関東綱五郎と書いているが、その出身地武蔵国埼玉郡伊勢野現在の埼玉県八潮市伊勢野)とする。佃は「隣村大瀬博徒を斬ったので、人呼んで大瀬の半五郎」と由来を書く。『次郎長三国志』の村上元三は、三代目神田伯山創作による講談評して大瀬の半五郎の件りなど、うまく出来ているが、次郎長の乾分の中には大瀬の半五郎というのはいない。関東綱五郎という乾分がそのモデル」と断定している。小説関東綱五郎』(1926年)を書いた長谷川伸は「関東綱五郎」を仮名、「大咲 半五郎」(おおさく はんごろう)を本名とし、1881年明治14年)に伊勢野病死したとする長谷川享年36としており、1846年弘化3年生まれとみていることになる。『架空人名辞典 日本編』は、実在するとされている吉良の仁吉森の石松掲載しているが、「大瀬半五郎」の項目もあり、別名を「関東綱五郎」として同一視しているが、「江戸神田淡路町の人、鉄砲鍛冶息子」と記載している。

※この「大瀬半五郎別人説」の解説は、「関東綱五郎」の解説の一部です。
「大瀬半五郎別人説」を含む「関東綱五郎」の記事については、「関東綱五郎」の概要を参照ください。

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