だいがく‐なんこう〔‐ナンカウ〕【大学南校】
大学南校
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「大学校 (1869年)」の記事における「大学南校」の解説
神田一ツ橋(錦町)の旧開成所跡に設置された。洋学教育を担当し、明治3年7月の「本校」閉鎖後に制定された「大学南校規則」によれば、外国人教師による外国語の課程である「正則」、日本人教師による日本語の課程である「変則」から構成され、外国語学・西洋地歴・数学などを科目とする「普通科」修了ののち法理文の各「専門科」に進学することになっていた。また、同年以降、各藩からの貢進生募集(259藩より300余名)や海外への官費留学生派遣(日本最初の欧米留学生は南校からの派遣である)などの施策も行った。明治6年には明六社へ参画[要出典]。 その後、文部省への移管と「南校」への改称(明治4年7月)をへて、9月25日(新暦11月7日)に南校は一時閉鎖され10月に再開された。この時「変則」課程は廃止されて「正則」のみとなり、また貢進生制度も廃止され新たに学生が募集され入学試験により入学が許可された。当初予定されていた「専門科」の設置は、それを修める程度の学力に達する生徒がほとんどいなかったため放棄され、「普通科」すなわち外国語教育に重点がおかれることになった。この結果南校はフルベッキの指導下で、中等学校相当の学校となった。 明治5年(1872年)の学制により南校は「第一大学区第一番中学」、1873年(明治6年)専門学校(後年の専門学校令に準拠した旧制専門学校とは異なる)となって開成学校と改称し、1874年ついで「東京開成学校」に改称された。 開成学校への改称後、校地は東京大学法理文3学部に継承された(その後現在地の東大本郷校地に順次移転)。
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