大学卒業~京城帝国大学時代
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「藤塚鄰」の記事における「大学卒業~京城帝国大学時代」の解説
明治41年(1908)大学卒業後、旧制第八高等学校(名古屋大学)教授となる。大正10年(1923)に中国に留学し、大正15年(1928)に日本領朝鮮の京城(ソウル)帝国大学教授に就任。 就任当時の朝鮮総督は齋藤實(奥州市水沢出身・第三十代首相)。 京城帝国大学における韓国儒教研究は、藤塚鄰教授ら3名により発展。鄰は「日鮮清の文化交流」「清朝文化東伝の研究」等を著し、東アジア各国に敬意を持っていた。 齋藤實は昭和2年(1927)朝鮮総督を退任したが、昭和4年(1929)再び就任した。 齋藤総督は京城帝国大学との連携を試み、京城帝国大学に漢学の科目をおき、儒教教育を任せようとした。しかし斎藤総督の構想は実現せず、韓国儒教の教育は斎藤が構想した明倫学院に回されるようになった。京城帝国大学支那哲学講座の藤塚教授ら2名は明倫学院の講師を担当した。 (国会図書館人名辞典・大阪毎日朝鮮版) 帝国政府は朝鮮において儒教利用の政策を目論んでいたが、斎藤實総督と鄰らが行ったのは、通常の儒学教育であったとみられている。 昭和15年(1940)京城帝国大学を定年退職し帰国。 政治、外交、民族を超えた儒学思想を持っていた鄰は、自らの世界観に基づいた儒学教育を行っていた逸話が残っている。 第二次世界大戦前の日本領朝鮮にて混みあった汽車に乗った際、「朝鮮人は立て」と言った日本人をたしなめ、帰宅後家族に道義に反することがあったと話をしたことが親族に伝わっている。 また、後述する戦時中の李氏朝鮮後期の文人、金正喜(キムジョンヒ・1786 - 1856年)に関する逸話や、岩手県の一関第二高等学校での講演の内容からも信念が窺い知れる。 京城帝国大学教授在職中の昭和12年1月18日に藤塚鄰は昭和天皇に漢書御進講を行う。鄰は天皇陛下に御進講したことを大変名誉に感じていた。感激のあまり頂いた菓子をすぐに食べる事ができずに暫く神棚に供え、いざ食べようとした時には、傷んでおり食べられなかったことが親族に伝わっている。
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