大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出の意味・解説 

大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:17 UTC 版)

萩原智子」の記事における「大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出」の解説

大阪府生まれ山梨県育ち甲府市立西中学校3年になった1995年全日本ジュニアチームメンバー選出された。 翌1996年山梨学院大学附属高等学校入学同級生森田丈武)。在学中3年連続インターハイ出場し200m背泳ぎ3連覇1998年アジア大会では100m200m背泳ぎ並びに400mメドレーリレー3冠達成した1999年卒業後は学内制度により母系山梨学院大学法学部進学した。これにより現在に至るまで同大学を活動拠点とする。 入学した年にパンパシフィック水泳選手権200m背泳ぎ金メダル獲得。翌2000年行われるシドニーオリンピックテスト大会だったこともあり、大きく期待されていた。 2000年4月日本水選手権シドニー五輪国内選考会)では、200m個人メドレー当時日本記録達成し優勝200m背泳ぎでは、優勝中尾美樹次いで2位入り、当五輪自身初めての日本代表として競泳2種目の出場獲得した2000年9月開催されシドニー五輪本番レースは、200m個人メドレー日本女子トップながらも8位入賞留まる200m背泳ぎではレース終盤同日本代表の中尾美樹3位争ったが、タッチの差惜しくも敗れ4位入賞で、2種目共に念願五輪メダル獲得は成らなかった。それでも200m背泳ぎ決勝後には、僅差銅メダル獲得中尾駆け寄り萩原自ら笑顔祝福言葉を送ると、中尾嬉し涙流していた。また萩原活動評価されて、大学新たに建設した屋内プールは「シドニー記念水泳場」と命名される3年生になった2001年福岡市開かれた世界水泳選手権では、800m自由形リレーメンバー選ばれ3位入賞銅メダル獲得した4年生になった2002年日本水選手権200m自由形200m背泳ぎ200m個人メドレー100m自由形での史上初となる個人4冠を達成。しかしこの快挙皮肉にも、彼女の水泳人生大きく狂わせるきっかけにも繋がってしまう。 2002年8月横浜市開かれたパンパシフィック水泳で、200m個人メドレーでは金メダル獲得。だが日本選手権優勝多数により、多く種目エントリーした強行日程が祟ったせいか、大会中過呼吸3度発症し200m背泳ぎ決勝レース直前棄権しそのまま緊急入院する事態となってしまった。同年10月釜山アジア大会代表にも選ばれていたが、重度過換気症候群診断されてこれも辞退結局満足な結果を残すことが出来ないまま、大学生活終えることとなった。 なお、大学生時代教育実習もしており、その時教え子に、当時高校生松本哲也(元読売ジャイアンツ選手)が居たため、今でもになっているという。なお、プロ野球は特にどこのチームファンというわけではないが、ファンである選手松本の他、上原浩治松坂大輔内川聖一栗山英樹挙げている。

※この「大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出」の解説は、「萩原智子」の解説の一部です。
「大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出」を含む「萩原智子」の記事については、「萩原智子」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出」の関連用語

大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの萩原智子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS