大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出
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「萩原智子」の記事における「大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出」の解説
大阪府生まれ、山梨県育ち。甲府市立西中学校3年になった1995年、全日本ジュニアチームのメンバーに選出された。 翌1996年に山梨学院大学附属高等学校入学(同級生に森田丈武)。在学中は3年連続でインターハイに出場し、200m背泳ぎで3連覇。1998年のアジア大会では100m、200mの背泳ぎ、並びに400mメドレーリレーの3冠を達成した。1999年に卒業後は学内制度により母系の山梨学院大学法学部へ進学した。これにより現在に至るまで同大学を活動の拠点とする。 入学した年にパンパシフィック水泳選手権200m背泳ぎで金メダルを獲得。翌2000年に行われるシドニーオリンピックのテスト大会だったこともあり、大きく期待されていた。 2000年4月の日本水泳選手権(シドニー五輪国内選考会)では、200m個人メドレーで当時の日本記録を達成し優勝。200m背泳ぎでは、優勝の中尾美樹に次いで2位に入り、当五輪で自身初めての日本代表として、競泳2種目の出場権を獲得した。 2000年9月に開催されたシドニー五輪本番のレースは、200m個人メドレーで日本女子のトップながらも8位入賞に留まる。200m背泳ぎではレース終盤で同日本代表の中尾美樹と3位を争ったが、タッチの差で惜しくも敗れ4位入賞で、2種目共に念願の五輪メダル獲得は成らなかった。それでも200m背泳ぎの決勝後には、僅差で銅メダル獲得の中尾に駆け寄り、萩原自ら笑顔で祝福の言葉を送ると、中尾は嬉し涙を流していた。また萩原の活動が評価されて、大学が新たに建設した屋内プールは「シドニー記念水泳場」と命名される。 3年生になった2001年、福岡市で開かれた世界水泳選手権では、800m自由形リレーのメンバーに選ばれて3位に入賞、銅メダルを獲得した。 4年生になった2002年、日本水泳選手権で200m自由形、200m背泳ぎ、200m個人メドレー、100m自由形での史上初となる個人4冠を達成。しかしこの快挙が皮肉にも、彼女の水泳人生を大きく狂わせるきっかけにも繋がってしまう。 2002年8月に横浜市で開かれたパンパシフィック水泳で、200m個人メドレーでは金メダルを獲得。だが日本選手権優勝多数により、多くの種目にエントリーした強行日程が祟ったせいか、大会中に過呼吸を3度も発症し、200m背泳ぎ決勝レースを直前で棄権し、そのまま緊急入院する事態となってしまった。同年10月の釜山アジア大会代表にも選ばれていたが、重度の過換気症候群と診断されてこれも辞退。結局満足な結果を残すことが出来ないまま、大学生活を終えることとなった。 なお、大学生時代は教育実習もしており、その時の教え子に、当時高校生の松本哲也(元読売ジャイアンツ選手)が居たため、今でも気になっているという。なお、プロ野球は特にどこのチームのファンというわけではないが、ファンである選手に松本の他、上原浩治、松坂大輔、内川聖一、栗山英樹を挙げている。
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