大乗寺の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/30 02:37 UTC 版)
押野荘の南部(現野々市市本町1丁目~横宮町)に、冨樫家尚が創建した密教寺へ、越前永平寺三代住職であった徹通義介が招聘されて、正応4年(1269年)に曹洞宗の禅寺として開山したのが大乗寺である。徹通義介禅師は冨樫吉信の子孫として越前足羽郡に生まれ、その遠祖が冨樫氏宗家と同様の利仁将軍であることに、家尚が縁を感じての招聘であったとされる。その後、天正4年(1576年)と天正8年(1580年)の、相次ぐ佐久間盛政の一向一揆勢攻めによって炎上消失するまでの300余年間にわたり、代々の冨樫氏の強力な庇護によって、永平寺に次ぐ曹洞宗第二の叢林として栄えた。 大正3年(1914年)に行われた野々市の耕地整理事業で、開祖徹通禅師の遺骨を安置したとされる開山塔所跡(現在の野々市市横宮町)の地下から、石櫃3個が発掘された。これを聞いた残翁は、現場に駆けつけて工事担当者に交渉し、骨粉が残る小瓶一個を自宅に保管した。それらの発掘品は、現在の高安軒に安置されている。また、徹通禅師の荼毘跡が野々市市太平寺にあったとされていたが、明治期以降の開墾と耕地整理によって痕跡が消えてしまった。残翁は、太平寺町の有志と協力して発掘による探索を試み、ついに徹通和尚荼毘墓の墓牌を発見するに至った。現在、この墓碑は新装なった都市計画道路の傍らで、野々市市よって整備された新しい祠の中に安置されている。 これらの史料が自分との係わりにおいて相次いで発掘されたことが契機となり、大乗寺の来歴を広く世に知らしめる作業こそが己に課せられた使命のように感じつつ、ますます研究に没頭するようになったものと思われる。「加賀大乗寺史」は、大乗寺が押野荘にあった開山から焼失までの時代、金沢市内の木ノ新保(現金沢駅辺り)と本多町(石川県立工業高等学校の辺り)にあった時代、金沢市長坂に移転して現在までに至る時代の各々を、日本史、日本禅宗史、郷土史と関連付けて、年代順にまとめたもので、700年にわたる石川県の歴史を検証できる貴重な資料となっている。
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