壁の建設とは? わかりやすく解説

壁の建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)

ベルリンの歴史」の記事における「壁の建設」の解説

詳細は「ベルリンの壁」を参照 1961年8月13日東ドイツ政府ベルリン分断強固にするためにベルリンの壁の建設開始したベルリン危機 (1961年)(英語版))。ベルリンの壁建設計画東ドイツ政府国家機密であった東ドイツ経済職員流出すること(いわゆる足による投票 (Abstimmung mit den Füßen)」)を恐れ東ドイツ国民西側移住することを壁によって阻止しようとしたのである早朝ポツダム広場石塊積み上げられ始めた時点アメリカ軍実力行使して壁の建設を妨害する準備はできていたものの、実際には壁が出来上がっていくのをただ眺めているだけであった西側3か国は西ベルリン封鎖を「露骨な手段」と伝え遮断時期と規模驚きあらわにした。しかしながら西ベルリンへの通行遮られということではなかったため、西側3か国は軍事介入を行わなかった。 1963年アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディベルリン訪問した。シェーネベルク区庁舎ドイツ語版)の前でケネディは壁について演説し歴史に残る "Ich bin ein Berliner" で締めくくった。この演説は、東ドイツに浮かぶ民主主義孤島にあるベルリン市民にとっては大きな意味を持ったが、同時に建設部分的に容認するアメリカの姿勢象徴するものであった。その一方で壁は西側3か国にとっても東ドイツにとっても政治・軍事の面での安定化意味し西ベルリン現状まさしく固定化された。ソヴィエト連邦はかつて1958年西側3か国に対しニキータ・フルシチョフによる最後通牒ベルリン危機 (1958年)(ドイツ語版))で要求した非武装かつ「自由な都市西ベルリン放棄したであった1971年西ベルリンとの通行について取り決めたベルリン4ヶ国協定発効し道路封鎖によって政治的経済的に恫喝される心配もなくなった。さらに4か国はベルリン全体対する共通の責任確認し西ベルリンドイツ連邦共和国構成する領域ではなく、かつドイツ連邦共和国による統治及ばないものとされた。4か国の地位に関してソヴィエト連邦は、西ベルリンのみ適用されるとしたが、西側3か国は1975年国際連合宛てた文書強調してベルリン全体に及ぶものとした。

※この「壁の建設」の解説は、「ベルリンの歴史」の解説の一部です。
「壁の建設」を含む「ベルリンの歴史」の記事については、「ベルリンの歴史」の概要を参照ください。

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