増田巡査の神格化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 10:08 UTC 版)
「増田神社 (唐津市)」の記事における「増田巡査の神格化」の解説
増田が死去した2日後、コレラに罹患した2人の子供を看病していた中村幾治の許に増田巡査が夢枕に立ったという。夢枕の増田巡査は、白シャツ姿に剣を抜いた大男で現れて「余はこの世になき増田敬太郎なるぞ、高串のコレラはわが仇敵にして冥府へ伴い行きれば安んじて子らの回復を待て、ゆめ看護を怠りそ」と厳かに言って消えた。翌日には増田巡査の死とその最後の言葉を聞いた中村は夢枕の内容との一致に驚き、子供を懸命に看病した結果、子供2人も無事回復した。中村のほか同様の夢枕を見た住民は他に2件あり、伝え聞いた住民の間では増田巡査は神様として認識されるようになった。 荼毘に付された増田の遺骨は遺族によって故郷の泗水に埋葬されたが、一部は恩義を感じた村人によって分骨してもらい、地区の中にあった秋葉神社の一角に埋葬されていた。死後1ケ月経過したころには埋葬されていた場所に『故佐賀県巡査増田氏碑』が建立された。当初は高さ40センチメートルほどの小祠であったが、人づてに信仰が広まった結果、本格的に神社の体裁を取るようになり、増田の死後1年後の1896年(明治29年)9月には「各村よりの参詣絶ゆる間もなき有り様となりては、御碑を雨露に曝しまいらせ置くは恐れあり」と言う理由からその石碑に瓦葺きの拝殿(2間×2間半)が建立された。 また、元々春分・秋分の日に行う「大祭日」として、秋葉神社の祭りとして明治初期から行われていた「お籠り」が祭礼として行われるようになり、地元の高串から唐津や伊万里まで、遠くは福岡や長崎からも参拝者が訪れたという記録がある。1905年(明治38年)には社殿を増築して10坪程度の広さとなる。増築時には日露戦争の凱旋記念として2本の鳥居が建てられ、社殿に近い鳥居は扁額に「増田神社」、次の鳥居は扁額に「秋葉神社」が掲げられるようになる。なお、増田神社創立の時代背景として、国威発揚のために軍人が神社に祀られて神格化された日清・日露戦争当時の時代背景が関係していると指摘されている。また、1913年(大正2年)には再増築されて、玉垣や狛犬も新たに整備されていった。
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