垂直統合、GMへの布石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「垂直統合、GMへの布石」の解説
すでに馬車生産で垂直統合を先駆けておこなっていたデュラントは自動車でもその経験を生かした。車軸がエンジンと同じくらいに重要な構成部分であることを悟ったデュラントは、ニューヨークで車輪や車軸など足回り部分を製作していたチャールズ・スチュワート・モット(CSモット, 1875-1973)とその会社ウエストン=モット・カンパニーをフリントに呼び寄せ、1905年にハミルトン農場跡の広大な敷地内のビュイック工場の隣に一大工場を設けた。GM創設後には、モットの工場はGMとの共同所有となり、CSモット自身はGM取締役兼バイスプレジデントとして、およそ60年間という長期にわたって役員を務めた。CSモットはまた、最後までデュラントと親交を保っていた数少ない生涯の友人の一人となった。 デュラントは、フランス人で以前は自転車競技で活躍し、当時ニューヨークの「チャンピオン・イグニッション・カンパニー(Champion Ignition Company)」でスパークプラグを製作していたアルバート・チャンピオンにも、フリントでの操業を要請し新たにデュラント全額出資(のち3/4とした)で同名の「チャンピオン・イグニッション・カンパニー(Champion Ignition Company)」をビュイック工場内に設立(1908年10月26日)している。(ニューヨークのチャンピオン・イグニッション・カンパニーは、1920年になって、フリントの会社を訴えたため、社名はイニシャルを使ってAC Spark Plug Companyに変更した。これは現在のACデルコにつながる。どちらの会社も現在に至るまでスパークプラグの主要企業である。) 当初は地元の業者に頼り、ついで実力ある部品会社を地元に招聘することで、ビュイックを強化したデュラントだったが、その枠組みをさらに大きくする考えを描くようになった。米国は1907年に金融恐慌となった。株価は1906年の半値近くまで下落し景気後退がさまざまな業界に影響を与えた。しかし米国自動車産業は他産業に比べその影響は軽微だった。しかもデュラントの関係していた会社はまったく影響を受けず、ビュイック社は1907年に前年の5割増し生産となった。フリントは恐慌の影響を受けない数少ない地域だった。この時期の米国では多くの地域で銀行が貸し出しを渋ったが、フリントの銀行からはデュラントはいままでと変わらずに現金を融通できた。ビュイック社は1908年には確固たる財務基盤を築いた。世間ではデュラントの名声がさらに高まり、デュラント自身も自分のやり方に自信を深めた。他の事業者もデュラントの考えに耳を傾け、デュラントの大きなビジョンに合流しようと考えるようになっていた。
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