国際購入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/09 03:57 UTC 版)
「ウィリアム・ロビンソン・ブラウン」の記事における「国際購入」の解説
アメリカの多くのブリーダーがクラベット・アラビアン・スタッドから馬を購入していた。ブラウンがメインズボロを設立した当時は、アン・ブラントとウィルフリッド・スコーウェン・ブラントが所有していた。1900年代初期にはブラント家に混乱があったこともあってアメリカのブリーダーはクラベットの最良のアラブ種馬を購入できた。1906年、ブラント夫妻が別居し、1917年にはブラント夫人が死去した後、ブラントの娘ジュディス・ウェントワースが、クラベットの土地や馬についてウィルフリッドとの敵意のある広範な闘争に巻き込まれた。ウィルフリッドは債権者を宥める必要があり、1918年にクラベットの馬の多くを国際的なバイヤーに低価格で売却した。ブラウンは1918年にクラベットの馬18頭を購入し、その理由は分からないが、メインズボロに到着したのは17頭だけだった。ブラウンはその全体で2,727ポンドを払った。このとき購入した中で最も重要なのは、良く知られた種牡馬であるバークであり、アメリカで仔馬4頭に種付けしただけで死んだ。これはウィルフリッドの行動故にクラベットに最良の種牡馬を買い戻そうとしていたジュディス・ウェントワースにとって大いに困惑させられることとなった。ブラウンは1923年にもクラベット養育の馬2頭を購入したが、直接ウェントワースからではなかった。 ブラウンがメインズボロで飼育した馬の中で最も著名なクラベット飼育のものは、1909年にアメリカに来たアストラルドだった。この馬はウィルフリッド・ブラントがマサチューセッツ州のバイヤーに売ったものだったが、ニューイングランドで僅か2頭の仔馬を生ませた後に、補充馬に売られ、西に運ばれ、オレゴン州で侘しく暮らし、そこでは純血の子孫を生み出していなかった。アストラルドは最終的に1923年にブラウンが取得し、列車でこの年寄り馬をアイダホ州からニューハンプシャー州まで運ばせた。アストラルドはメインズボロで仔馬を1頭生ませただけだったが、アメリカで飼育された息子達の中にはグラストラがいた。 ブラウンは1921年にアメリカ陸軍交代馬サービスと共にヨーロッパに旅し、オーストリア、フランス、ハンガリーで多くの牧場を訪れた。帰途にはクラベットでウェントワースと会ったが、馬は買わなかった。1921年と1922年にフランスからアラブ種牝馬数頭を輸入した。これはフランスが優秀な騎兵用馬を生産しているという評判があったことも影響していた。 1929年、ブラウンはアラブ種の専門家カール・ラスワンと共に砂漠産馬を求めてエジプトとシリアに旅した。ブラウンの妻に拠れば、この二人は仲がうまくゆかず、その旅の間に購入した5頭の馬も、アメリカに渡ることはなかった。この旅の後、ブラウンは『砂漠の馬』を著しており、現在でもアラブ種馬について書かれた最良の作品だと見なされている。 1932年、その牧場のマネジャーであるジャック・ハンフリーをエジプトに送り、モハメド・アリ王子から種牡馬2頭と牝馬4頭を購入させた。この王子は馬の飼育者かつ学者として知られ、アラブ種馬を育成するための2巻の論文を出版していた。このとき購入した牝馬2頭はマールーサの娘であり、ブラウンは「今まで見た中で最も美しい牝馬」と表現していた。種牡馬は競馬で実績があったナスアとザリフェだった。
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