国家教育の尽力
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明治19年(1886年)には宮中顧問官、同21年(1888年)に枢密顧問官に至った。天皇からの信任は変わらず、大事においてはしばしば意見を求められ、明治20年(1887年)と明治22年(1889年)の条約改正問題の諮問に応じ、『教学聖旨』、『幼学綱要』、明治23年(1890年)の『教育勅語』の起草への参加などを通じて、儒教による天皇制国家思想の形成に寄与した。また宮中顧問官への就任後も天皇から「天皇の私的顧問」であることを命じられ、正装である洋装の義務を元田だけは免除して和装での参内を許可する(1886年3月11日付、元田からの村井繁三宛書簡)など、彼の天皇に対する影響力は伊藤ら政府首脳にとっても無視できなかった。 しかし、天皇は次第に伊藤を信頼するようになり、明治19年(1886年)9月7日に両者の間に機務六条が取り交わされ、天皇は普段は政治関与を控え緊急事態に際しての調停役のみを求められる君主機関説を受け入れ、元田らの天皇親政は完全に否定され、宮中の政治介入も排除された。明治21年(1888年)の大日本帝国憲法の枢密院審議に出席したが、皇室を国家の軸とする旨を伊藤が発言したこともあり質問は殆どなかった。 明治24年(1891年)1月21日、病が重くなると特旨により従二位・男爵を授けられた。翌日の22日に72歳で死去。墓は東京都港区の青山霊園。爵位は嫡男の永貞(1842年 - 1901年)に継承されたが、続く嫡孫の亨吉(1870年 - 1931年)に息子がなかったため、遠縁で元田の曾孫に当たる元田竹彦(1900年 - 1987年、祖母は元田の娘永子)が婿養子として迎えられ、この系統が現在も続いている。
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