品種の発見と確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:51 UTC 版)
「マッキントッシュ (リンゴ)」の記事における「品種の発見と確立」の解説
ヨーロッパのリンゴは、早ければ1606年にフランス人入植者によって、ポートロイヤル入植地(現代のノバスコシア州アナポリス郡アナポリスロイヤル)からカナダに持ち込まれた。導入後、リンゴ栽培は内陸部に広がった。1776年には、ロイヤリスト達がすでに北アメリカの気候に順応したリンゴの苗木と種子を携えてアッパーカナダに到着している。 マッキントッシュの発見者、ジョン・マッキントッシュ(1777 – c. 1845–46)は、1796年に、ロイヤリストの両親によってアッパーカナダに連れていかれた恋人の Dolly Irwin を追って、彼の生まれ故郷であるニューヨーク州Mohawk Valleyの実家を離れた。 彼女は彼が見つける前に死去していたが、彼はアッパーカナダの農夫として定住した。彼は1801年に Hannah Doran と結婚し、彼らは1811年に、マッキントッシュが義兄のエドワード・ドランとダンデラの土地を交換するまで、セントローレンス川沿いで農業を営んだ 。 この新しい土地は4分の1エーカーしか開拓されておらず、その場所さえ再び野生化した木々が生い茂っていた。マッキントッシュは、その区画を片付けている間に、いくつかの野生化したリンゴの苗を発見した。彼は家の庭にそれらの苗木を移植した。苗の1つは特に良い実をつけた。マッキントッシュの孫たちは、祖母が果樹園でその木の世話をしているのをよく見ていたので、その木のリンゴを「おばあちゃんのリンゴ」と呼んでいた。マッキントッシュは1820年までにその木からの実生苗を販売していたが、それらは親木と同じ品質の果実を生産しなかった ジョン・マッキントッシュの息子アラン(1815–1899)は、1835年頃に接ぎ木の技術を習得した。このクローニングにより、マッキントッシュは親木の果実が持つ独特の特性を維持することができた。アランと「接木屋サンディ」の愛称で呼ばれていた兄弟のサンディ(1825–1906)は、この栽培品種の生産を増やし販売を促進した。最初の販売は1835年で、1836年にこの栽培品種は「マッキントッシュレッド」と改名された 。1870年には商業生産が開始され、1900年にリンゴ黒星病に対する初の噴霧機が発明された後に普及した。
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