呼称と同定について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 01:48 UTC 版)
「稲瀬川 (神奈川県)」の記事における「呼称と同定について」の解説
稲瀬川(美奈能瀬川・水無瀬川)は、由緒ある川であるために江戸時代の地誌類以降さまざまな考証が行われ、現地でも呼称と同定に混乱が生じているとされている。上述の通り「稲瀬川」には「美奈能瀬橋」が架かり、「稲瀬川」の碑は「美奈能瀬川」河畔にある。 19世紀初頭に成立した「江島道見取絵図」(五街道分間延絵図の一つ)は、東海道藤沢宿から江の島付近を経由して鎌倉の下馬に至る「江島道」を描いた絵図である。長谷村の中心であった長谷観音門前で、江島道(現在の神奈川県道311号鎌倉葉山線=由比ガ浜大通りがその一部に相当する)は大仏方向から流下する川を橋で渡っており、この川に「稲瀬川」という注記がされている。また甘縄明神(現在の甘縄神明神社)門前を東に過ぎたあたりで、無名の川を水抜(暗渠)で通している。 天保12年(1841年)成立の地誌『新編相模国風土記稿』の「長谷村」の節では、「稲瀬川」について「源ハ御輿ヶ嶽ヨリ出テ南流シ村内ニテ由井ヶ浜ニ会ス」と記す。「御輿ヶ嶽」についても諸説があるが、同書「長谷村」の節で長谷村の東にある山とされる。「稲瀬川」の項には付記として「又小名大谷ノ溪間ヨリ涌出スル小川アリ、上ノ町ヲ経テ南流シ村内ニテ稲瀬川ニ合ス。此ノ川ニ石橋ヲ架ス。兵ヶ橋ト呼」とある。甘縄神明神社付近の山から発する川を「稲瀬川」とみなし、大谷から流出する現在の稲瀬川がそこに合流するという描写である。 明治初年に作成された迅速測図では、現在の稲瀬川が「水無瀬川」の名称で描かれているが、現在の美奈能瀬川に相当する川については描図されていない(歴史的農業環境閲覧システム)。 1902年発行の『鎌倉遊覽實測地圖』では、大仏北東の谷(「佐々目谷山」の北西麓と描図されている)から流下する現在の稲瀬川が「稲瀬川」として描かれており、河口付近で「神明社」(甘縄神明神社)南側から描かれる川(名称の記載なし)と合流している。 1941年(昭和16年)発行の『鎌倉市及近傍明細地図』では「笹目ケ谷」方面から流れてくる「美奈能瀬川」が描かれている。この美奈能瀬川は、大仏方面から流下する川(河口に「稲瀬川」と河川名が記される)と河口付近の「長者ケ久保」で合流し、一本の川として海に注ぐ形で描図されている。
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