名所教え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 02:12 UTC 版)
一転して、僧は老人に、河原院から見える名所を尋ねる。老人は、東に見える音羽山、そこから南の方へ清閑寺、今熊野、稲荷山、藤の森、深草山、木幡山、と名所を教えていく。 ワキ「いかに尉殿、見えわたりたる山々はみな名所にてぞ候ふらん、おん教え候へシテ「さん候(ぞうろう)、みな名所にて候、おん尋ね候へ、教え申し候ふべしワキ「まづあれに見えたるは音羽山(おとわやま)候(ぞうろ)ふかシテ「さん候(ぞうろう)、あれこそ音羽山候(ぞうろ)ふよワキ「音羽山音(おと)に聞きつつ逢坂(おうさか)の、関のこなたにと詠みたれば、逢坂山もほど近うこそ候ふらめシテ「仰せのごとく関のこなたにとは詠みたれども、あなたにあたれば逢坂の、山は音羽の峰に隠れて 〽この辺よりは見えぬなりワキ〽さてさて音羽の峰続き、次第次第の山並みの、名所名所を語りたまへシテ「語りも尽くさじ言の葉の、歌の中山(なかやま)清閑寺(せいがんじ) 〽今熊野(いまぐまの)とはあれぞかしワキ〽さてその末に続きたる、里(さと)一叢(ひとむら)の森の木立(こだち)シテ「それをしるべにご覧ぜよ、まだき時雨(しぐれ)の秋なれば、紅葉も青き稲荷山(いなりやま)ワキ〽風も暮れ行く雲の葉の、梢も青き秋の色シテ「いまこそ秋よ名にし負ふ、春は花見し藤の森ワキ〽緑の空も影青き、野山に続く里はいかにシテ〽あれこそ夕さればワキ〽野辺の秋風シテ〽身にしみてワキ〽鶉(うずら)鳴くなるシテ〽深草山よ地謡〽木幡山(こわたやま)伏見の竹田、淀鳥羽(とば)も見えたりや(後略) [僧]もしご老人、見渡せる山々はみな名所なのでしょう。それをお教えください。[老人]そうです、みな名所です。お尋ねください、教えて差し上げます。[僧]まず、あちらに見えているのは音羽山でしょうか。[老人]そうです、あれこそ音羽山ですよ。[僧]「音羽山のことは話に聞きつつも、逢坂の関のこちら側で逢わずに年月が過ぎていくことだ」という歌がありますから、逢坂山もほど近くなのでしょうね。[老人]おっしゃるように「関のこちら側」という歌はありますが、(ここからは)逢坂山は関のあちら側に当たるので、音羽山の峰に隠れて、この辺りからは見えないのです。[僧]それでは、音羽山の峰に続いて順々にある山並みの名所名所をお語りください。[老人]言葉で語っていてはきりがありませんが、歌の中山と呼ばれる清閑寺。今熊野というのはあのことです。[僧]そしてその端に続いている里にひと塊の森の木立がある。[老人]それを目印にご覧ください。まだ時雨には早い中秋なので、紅葉もまだ青い稲荷山です。[僧]風が吹く夕暮れ時、行く雲の端に、梢がまだ青い秋の様子なのは。[老人]今は秋ですが、春は花で知られる藤の森です。[僧]青い空のもと、青々とした野山に続く里は何ですか。[老人]あれこそ、「夕されば」[僧]「野辺の秋風」[老人]「身にしみて」[僧]「鶉鳴くなる」[老人]「深草山よ」と詠まれた深草山です。――それに続いて木幡山、伏見の竹田、淀、鳥羽も見えている。(後略) その後は、都の西方に見える小塩山、その北側の嵐山と案内し、月に見とれているうちに、老人は我に帰り、潮を汲む。そう思うと、老人の姿は消えてしまった(中入り)。 シテ〽興(きょう)に乗じて地謡〽身をばげに、忘れたり秋の夜の、長物語よしなや、まづいざや潮(しお)を汲まんとて、持つや田子の浦、東(あずま)からげの潮衣(しおごろも)、汲めば月をも、袖に望潮(もちじお)の、汀(みぎわ)に帰る波の夜(よる)の、老人と見えつるが、潮曇りにかきまぎれて、跡も見えずなりにけり、跡をも見せずなりにけり [老人]興に乗って――実に我が身を忘れてしまっていた。秋の夜の長物語をしても仕方ない。さあ、まずは潮を汲もう。と言って、担桶(たご)を持ち、衣の裾をからげ、潮を汲むと、濡れた衣の袖に月が映る。汲んだ潮を持って望潮(旧暦十五日の潮)の波打ち際に帰ってくる。波が打ち寄せる夜の中、老人の姿が見えていたが、潮煙にまぎれて、姿が見えなくなってしまった。
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