合作刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
「#師」も参照 関鍛冶の元締めの一人の関兼永、タナゴ腹の採用など村正と作風が近い島田派の代表的刀工島田助宗、末相州(小田原相州)の俊次、そして当時の京を代表する名工で槍や彫物を得意した平安城長吉などとの合作刀が現存し、これらの技術的交流関係は村正の作風とほぼ一致する。 短刀〈銘 勢州桑名住村正/以合鍛正重作〉 以合鍛とは合作という意味。師弟かつ伊勢を代表する二大巨匠の千子村正と千子正重による合作刀。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載(『首斬浅右衛門刀剣押形』下巻179頁からの転載)。 短刀〈銘 村正/# 助宗〉 八寸四分。裏銘の「#」字は、技術的制約から本項ではこの字を用いたが、正しくは縦方向も横方向もそれぞれ二本から三本にした字。島田助宗との合作刀で、はげしく金筋・稲妻が見事にかかる傑作。助宗は「島田五鍛冶」の一つに数えられる島田派の重鎮だが、村正の方が表銘に来て上位として扱われている。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載(柴田刀店発行『麗』からの転載)。 刀〈銘 村正 俊次 俊廣/〉 二尺三寸一分五厘。相州住俊次と俊広との合作。俊次は小田原に住んでいた島田派系末相州(小田原相州)の刀工で、享禄(1528-1532年)または永禄(1558-1570年)ごろの人。俊広は不明だが、俊次の弟か。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載(『日本刀随感』からの転載)。 刀〈銘 村正 俊次 俊廣/〉 二尺四寸二分。重要刀剣(1975年7月1日指定)。同じく俊次らとの合作刀。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載。 短刀〈銘 兼永/打関村正〉 大阪府長野市某家蔵。村正が関を訪ねて関兼永と合作し、兼永の鍛えに焼入れは村正が施した例。ここでは村正が下位の立場になっている。大和国から来た手掻派の初代兼永(包永)は一説に美濃伝関鍛冶の始祖とされ(『元亀本』)、関に春日神社を勧請した人物で、その子孫の何代目かの兼永も文明年間(1469-1487年)に春日神社へ能舞台を寄進するほどの有力者だった。村正は関鍛冶出身だから、流祖の家系である兼永に対して当然下位になる訳である。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載。 刀〈銘 平安城長吉/正真〉 二尺三寸五分。京の名工平安城長吉と村正の高弟の正真が打ったもので、長吉が上位の立場となっている。長吉と千子派に技術的交流があったとする古来からの説を立証する。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載(『光山押形』31頁からの転載)。
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