各国による電信ケーブル網の広がり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:59 UTC 版)
「海底ケーブル」の記事における「各国による電信ケーブル網の広がり」の解説
大西洋横断電信ケーブル以後、イギリス以外の国においても海底ケーブルの敷設は行われた。特に北大西洋においては、フランス、ドイツ、アメリカによってケーブルが敷設され、その本数はイギリスのケーブルと合わせると1901年の時点で15本に達した。 とはいえ、19世紀においては、海底ケーブルの主導権はイギリスにあった。ケーブルは高価であり、敷設にもケーブル敷設船など多大な投資を必要とするため、企業が新規に参入するにはハードルが高かった。さらに、ケーブルの絶縁物質であるガタパーチャの生産は、イギリスのガタパーチャ社が押さえていた。1901年の時点で海底ケーブルの総距離はおよそ36万キロメートルに達していたが、以上のような理由により、イギリスはそのうちの63%を占めていた。 この力を背景に、イギリスは他国の重要な電報を盗聴したり、伝達を故意に遅らせたりするなど、外交面でケーブルを利用した。たとえば、1899年のボーア戦争の時に、イギリスはフランスと南アフリカの電報をすべて検閲し、暗号化された電報は通信しないという対応をとった。 20世紀に入るころになると、こうしたイギリスの独占を崩すため、他国によるケーブル網が広まるようになった。フランスはボーア戦争でのイギリスの対応が契機となって、国策によってケーブル敷設が盛んになった。そして、インドシナ半島へと接続するためのフエ-アモイ間(1901年)、西アフリカの植民地を結ぶブレスト-ダカール間(1905年)、インドと接続するためのマダガスカル-モーリシャス間(1906年)などが敷設された。 アメリカは1898年にフィリピンを植民地にしたため、太平洋へのケーブルを試みた。そして1903年に、サンフランシスコからホノルル、グアムを経由してマニラへ至るケーブルを開通させた。このケーブルは1906年には上海まで延伸し、さらに同年グアムから東京へと通じるケーブルも敷設した。 こうした諸外国の動きと、次で述べる無線通信が普及してきたことにより、イギリスの情報通信面における独占時代は終わりを迎えた。そして通信の主役は電信から電話へと移り変わることになる。
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