各国との論争・関係断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:50 UTC 版)
「アルバニア労働党」の記事における「各国との論争・関係断絶」の解説
戦後はスターリンのソ連および隣国であるチトーのユーゴスラビア社会主義連邦共和国と友好関係を結んだが、独自の自主管理社会主義路線(チトー主義)を採るユーゴスラビアがコミンフォルムを脱退すると関係を断絶してしまう。 次いでスターリンの死後、ソ連の指導者となったフルシチョフが1956年にスターリン批判を行うと、これを修正主義として非難、中ソ対立では毛沢東指導下の中華人民共和国(中国)と歩調を合わせ、国家レベルで毛沢東主義に転じた。1967年には全ての宗教を禁止し「無神国家」を宣言した。 1971年には国際連合でアルバニア決議を共同提案して国際社会で中国が確固たる立場を築くのに一役を買うも1972年のニクソン大統領の中国訪問を契機に中華人民共和国がアメリカ合衆国や反共的な国々に接近したことに批判を強め、1976年には毛沢東の葬儀に出席するも後継者の華国鋒らが3つの世界論に基づく外交をさらに展開したことに対して中華人民共和国を「第三世界の超大国」にさせることを企んでるとホッジャは非難し、1978年に鄧小平が改革開放路線を採用すると中国とも断絶し(中ア対立)、アルバニアを鎖国的な体制下に置いた。このためアルバニアの国内開発は停滞し、ヨーロッパの最貧国と呼ばれる状況にまでなった。同時期に西欧各国の左派が採択していたユーロコミュニズム路線や、ユーゴスラビアのチトー主義、同様にソ連と距離を置いていたルーマニアのニコラエ・チャウシェスク、さらに北朝鮮の金日成に対してもマルクス・レーニン主義に反するとホッジャは非難を続け、「世界唯一のマルクス・レーニン主義国家」を掲げたアルバニアは孤立を一層深める事になる。 すべてホッジャが自党であるアルバニア労働党のマルクス・レーニン主義、スターリン主義を正統なものと解釈し、他者を修正主義と非難し続けた結果であった。このため各国の共産党の中で反修正主義(英語版)を掲げ、旧来の主張に固執するグループが「アルバニア派」(ホッジャ主義)として分裂する現象も生じた。しかしながら、これらの動きは総じて小グループにとどまった。
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