右太プロの設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 13:36 UTC 版)
1927年(昭和2年)2月、デビュー以来13本の作品でコンビを組んできた沼田紅緑監督の早世や、スターたちの独立プロ設立が連続したことなどもあって、マキノプロを退社し、4月に笹川良一の支援で市川右太衛門プロダクション(通称:右太プロ)を設立して独立。同時に奈良県生駒郡伏見村(現在の奈良市あやめ池北1丁目)にあるあやめ池遊園地内に撮影所を建設した。 1928年(昭和3年)からは東亜キネマから配給提携先を松竹キネマに変え、翌1929年(昭和4年)には伊藤大輔監督の『一殺多生剣』などを送り出す。華麗な衣装、颯爽とした美剣士を演じたこの『一殺多生剣』や『東海の顔役』は初期の代表作と呼ばれている。翌1930年(昭和5年)、『旗本退屈男』で初めて早乙女主水之介役を演じ、右太プロ内で7本の続編を製作した。後、このシリーズは30数年に及ぶ人気シリーズとなった。 1932年(昭和7年)、松竹のトーキー映画『忠臣蔵』に2役で出演。この頃は映画界がサイレントからトーキーに移行したときであり、多くのスターたちがトーキー発声に苦戦する中、「セリフとともの演技」を無事演じてみせ映画は成功、この転換期を乗り切った。 1936年(昭和11年)、製作規模が拡大していく本格的なトーキー時代に入って、独立プロでは製作困難となり、右太プロは松竹へ吸収合併、あやめ池の撮影所は閉鎖した。右太衛門は松竹太秦撮影所に入社し、『旗本退屈男』シリーズでは初のトーキー作品となる『富士に立つ退屈男』などに主演した。
※この「右太プロの設立」の解説は、「市川右太衛門」の解説の一部です。
「右太プロの設立」を含む「市川右太衛門」の記事については、「市川右太衛門」の概要を参照ください。
- 右太プロの設立のページへのリンク