右太衛門と三日月党
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1966年ごろ、柳家小さんが音頭取り(家老)となって、「三日月党」という右太衛門の後援会が結成された。これは稲垣浩によると、「右太衛門を『殿様』と祭り上げ、各界の著名人・芸人が集まって時間や新聞、テレビを忘れて飲んで歌い、新作芸や隠し芸を披露するという全く意味のない会」で、興津要が立てた党の規約は「いったん入党したものは死ぬまで脱党は許さず」というものだった。 会費は集まりごとに消化して、運営費などは無かったが、一度税務署が政治団体かネズミ講と間違えて党の内情を調べに来て、この規約を聞かされて呆れて帰ったという。この会は10年を超す定例となり、稲垣はその理由として「旗本退屈男を中心とした仕掛け人のうまさと、殿におさまる右太さんの人間的なおおらかさだったと思う」と語っている。大映で『不惜身命』を撮りそこねた稲垣は、のちにテレビで右太衛門の『旗本退屈男』を二話撮っているが、そのきっかけは「三日月党」党員だったことからだった。
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