古馬時代(2009年・2010年)
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「チマデトリオンフ」の記事における「古馬時代(2009年・2010年)」の解説
休養中の1月にイギリスのルカ・クマーニ厩舎へ転厩した。転厩初戦となった4月26日のガネー賞では6着という結果に終わった。その後、5月28日のブリガディアジェラードステークス (G3) に出走し、勝利を収めた。続く7月4日のエクリプスステークスではシーザスターズの4着と完敗した。その後、アメリカに遠征し、8月8日のアーリントンミリオンに出走したが4着に終わった。その後、オーストラリアに遠征し10月17日のコーフィールドカップに出走したが見せ場がなく13着と大敗した。続く10月31日のマッキノンステークスでも9着に敗れた。レース後は休養に入った。 明け5歳の緒戦は4月24日のアンブロジアーノ賞 (G3) 。1番人気に推されたが4着に敗れた。7月のジウビレオ賞(準重賞)を制し、9月のフェデリコテシオ賞 (G3) でも2着と好走した。10月2日のドラール賞 (G2) では武豊とのコンビで挑むも7着、続く10月17日のジョッキークラブ大賞では最下位の9着、11月7日のローマ賞ではまたしても最下位の16着に敗れた。このレースを最後に現役を引退、種牡馬入りした。
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古馬時代(2005年・2006年)
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「ウィジャボード (競走馬)」の記事における「古馬時代(2005年・2006年)」の解説
2005年も現役続行し、コロネーションカップに出走予定も左前脚に腫瘍が見つかりプリンスオブウェールズステークスに回る。しかし2番人気に応えられず7着に終わったうえ、落鉄の影響で裂蹄を発症してしまい休養に入った。相手にも恵まれたプリンセスロイヤルステークスでは復帰戦を勝利で飾ったが、連覇を狙ったブリーダーズカップ・フィリー&メアターフではインターコンチネンタルの2着に敗れた。次走をジャパンカップに定めるものの、高速競馬、しかも2分22秒1という日本レコードでの決着では分が悪くアルカセットの5着に敗れた。それでも中1週で挑んだ香港ヴァーズでは牡馬の強豪を抑えて優勝した。 さらに翌2006年も現役を続けた。初戦に選んだドバイシーマクラシックではハーツクライの4着、その後もクイーンエリザベス2世カップ3着、コロネーションカップ2着と、善戦はするものの勝ちきれないレースが続いていたが、同年4戦目となったプリンスオブウェールズステークスでは、2006年のドバイワールドカップ馬エレクトロキューショニスト、ドバイデューティーフリー馬デヴィッドジュニアらを下し、昨年の香港ヴァーズ以来となる勝利を飾った。しかし次走のエクリプスステークスではデヴィッドジュニアの5着と敗退。次走の3歳上牝馬限定で行われるナッソーステークスでは1番人気に支持され、3番人気アレクサンダーゴールドラン(英語版)に頭差をつけて優勝した。続くアイリッシュチャンピオンステークスでは2番人気に支持され、1番人気ディラントーマスと叩き合いの末、クビ差の2着に敗れた。3度目の出走となるブリーダーズカップ・フィリー&メアターフでは1番人気に支持され、同レース2度目の優勝を果たし、G1・7勝目を挙げた。また、2006年度カルティエ賞年度代表馬、同最優秀古馬を受賞した。この年度代表馬の受賞は2004年以来2度目の受賞であり、カルティエ賞の創設以来初めて、2度の年度代表馬となった。同年8戦目、ランフランコ・デットーリとともにジャパンカップに再び挑戦したが、ディープインパクトの3着に敗れた。その後香港ヴァーズに出走予定であったが故障を発症し出走取り消しの上引退、繁殖入りすることになった。 牡馬と比べて能力のピークが短いと言われる牝馬でありながら、3年連続でG1を制覇しており、息の長い活躍を見せていた。その功績を称え、2007年からウィンスターディスタフハンデキャップ(米GIII)がウィジャボードハンデキャップと名称変更されることになった。
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