古市播磨法師宛一紙(心の文)
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「村田珠光」の記事における「古市播磨法師宛一紙(心の文)」の解説
珠光が茶の湯の弟子である古市澄胤に宛てて書いたとされる『古市播磨法師宛一紙』(通称「心の師の文」)は、珠光の茶の湯に対する考えが記されていることで有名である。『松屋会記』という茶会記を記したことで有名な奈良の松屋が所持し、小堀遠州に表具を依頼して掛物とした。江戸時代後期に大坂の豪商である鴻池道億へ譲られ、近代には平瀬露香が所蔵していたが、現在は所在不明となっている。 原文 古市播磨法師 珠光 この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。功者をばそねみ、初心の者をば見下すこと、一段勿体無き事どもなり。功者には近つきて一言をも歎き、また、初心の物をば、いかにも育つべき事なり。この道の一大事は、和漢この境を紛らわすこと、肝要肝要、用心あるべきことなり。また、当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断なり。かるる(枯るる)ということは、よき道具を持ち、その味わいをよく知りて、心の下地によりて、たけくらみて、後まて冷え痩せてこそ面白くあるべきなり。また、さはあれども、一向かなわぬ人体は、道具にはからかふべからず候なり。いか様の手取り風情にても、歎く所、肝要にて候。ただ、我慢我執が悪きことにて候。または、我慢なくてもならぬ道なり。銘道にいはく、心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれしなり。 現代語訳 この道において、まず忌むべきは、自慢・執着の心である。達人をそねみ、初心者を見下そうとする心。もっての外ではないか。本来、達人には近づき一言の教えをも乞い、また初心者を目にかけ育ててやるべきであろう。 そしてこの道でもっとも大事なことは、唐物と和物の境界を取り払うこと。(異文化を吸収し、己の独自の展開をする。)これを肝に銘じ、用心せねばならぬ。 さて昨今、「冷え枯れる」と申して、初心の者が備前・信楽焼などをもち、目利きが眉をひそめるような、名人ぶりを気取っているが、言語道断の沙汰である。「枯れる」ということは、良き道具をもち、その味わいを知り、心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。これこそ茶の湯の面白さなのだ。とはいうものの、それほどまでに至り得ぬ者は、道具へのこだわりを捨てよ。たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、人に教えを乞う姿勢が大事である。それには、自慢・執着の心が何より妨げとなろう。しかしまた、自ら誇りをもたねば成り立ち難い道でもあるのだが。 この道の至言として、 わが心の師となれ 心を師とするな (己の心を導く師となれ 我執にとらわれた心を師とするな) と古人もいう。 (現代語訳 能文社 2009年) 解説 「和漢この境を紛らわす」、つまり、唐物と和物の茶道具を融和させることが茶の湯の道で重要だとしている。 「冷え枯るる」の下りは、初心者は「ただ美しく」という正風体を目指すべきであり、「冷え枯るる」境地は老境に至ってのみ自ずと達する、という連歌師心敬による連歌論を転用している。 最後の「心の師とはなれ、心を師とせざれ」は、浄土思想の恵心僧都『往生要集』からの引用。
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