珠光の茶の湯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 07:04 UTC 版)
茶道史研究者の神津朝夫は、足利義政将軍など貴人との関わりでの珠光の茶道創始説を否定した。応仁の乱以前に成立したとされる『おようのあま』という物語、及びその絵巻(サントリー美術館蔵)に描かれた、主人公の老尼が遁世の法師を訪ねた時にお茶をもてなされた様子に、同じく遁世者だった珠光の茶の湯は似ていて、珠光も奈良へ帰還したときには田地の中の庵で同様の生活を送り、訪問者には茶を点てて、もてなしていたと推定される。この庵での様式が茶の湯の原型であり、これを高め追及して「わび茶」が創始されたと、指摘している。物語の法師は独り住まいなので自らお茶を点て、蓋の割れた陶製の風炉釜、継ぎのある茶碗、竹の茶器、竹柄杓を使い、これらの茶道具は部屋から見える場所に置かれていた。このように、客の前で使われる風炉釜などの和物茶道具との調和のためには、《珠光茶碗》などの下手の唐物を使う必要があり、そのために、唐物名物を多く持つことはせず、「和漢この境を紛らわす」ことが重要だと考えたのではないか、と指摘している。
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