原始から古代
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現在の新潟市域における人々の営みの始まりは、約2万年前の旧石器時代に丘陵と山麓を中心に始まった。古墳時代前期にはヤマト王権の勢力下にあり、647年(大化3年)には北方の蝦夷支配の拠点として渟足柵が設置された。 奈良時代が始まる8世紀前半、国―郡―郷を単位とする地方制度が整った。信濃川の河口には蒲原津があり、蒲原津は越後国の国津として人や物資の集まる交通の要所となった。新津丘陵では須恵器や鉄の生産が始まり、信濃川左岸の低地ではサケの漁獲・加工が行われた。また、海岸砂丘地帯では塩が作られた。
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原始から古代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 01:16 UTC 版)
越賀北部の小字柳谷にある柳谷遺跡では縄文時代の遺物が大量に出土しており、縄文土器に関しては関東地方や瀬戸内地方の土器と共通する特徴があることから、沿岸を伝っての交流があったことが推察される。また、この遺跡の周囲600mには縄文時代の遺跡がほかに3つ集まっており、越賀南部でも縄文時代後期の阿津里(あづり)貝塚が確認されている。南部では古墳時代後期の全16基の円墳群である野里浜(のりはま)古墳群、全10基の野里ノ岬(のりのみさき)古墳群、全7基の布浜(めはま)古墳群が確認されている。このように1地域に古墳が集中するのは、志摩半島では珍しい。 平安時代末期の『外記日記』の仁平2年6月26日(ユリウス暦:1152年7月29日)条に「裁定申各神宮司言上為越賀荘押妨神領事」の文字があり、また『玉葉』の承安2年11月1日(ユリウス暦:1172年11月18日)条には「越賀御厨事、同以消息遣親宗許了」の文字が見られ、越賀荘と越賀御厨の間に争いがあったことが窺える。また『神鳳鈔』にも「越賀」の字がある。
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