原始から奈良時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:21 UTC 版)
国府からは旧石器時代や縄文時代の遺跡は見つかっておらず、当時は人が住んでいなかったと考えられる。小字宇さぎ(うさぎ)から弥生土器の破片、小字五拝(ごはい)では4基の古墳が見つかっている。691年に持統天皇が志摩地方へ行幸した際に設けられた阿胡行宮が国府と甲賀の境界にある阿児山付近にあったという説がある。ただし阿胡行宮は現代の鳥羽市域にあったとする説もあり、正確な位置は特定されていない。この頃はまだ伊勢国の一部であり、志摩国として独立するのは国郡里制(大宝元年=701年)の成立以後である。 古代の国府は現代の阿児町国府・阿児町甲賀・阿児町志島にまたがる地域であったと推定され、志島古墳群は志摩国司の墓所、甲賀の地名は国衙(こくが)の転訛したもの、という伝承がある。文献上は『和名類聚抄』に志摩国の国府が英虞郡にある旨が記されている。志摩国府の正確な位置は未解明であるが、国府白浜から阿児の松原までの沿岸部にあったと推定される。また、条里制の名残りと考えられる長方形の地割が集落の西方にあり、三反田、上ノ坪、中坪といった条里制に由来する小字が現存する。平城京跡から出土する木簡には志摩国からアワビ、ミルガイ、ナマコなどの水産物が朝貢されていたことを伝えており、志摩国の水産物を海路で集めて都へ出荷する上で便利であったため、当地に志摩国府が設けられたものと推測できる。集荷のための港(国津)は、集落の西にあったラグーン(潟湖)を利用していた。ラグーンはすでに陸地化しているが、古代から中世まで天然の港として利用されたようで、東海道・北海道など「海道」(げと、海からの道または海への道を意味する)の付く小字が残る。 天平13年(741年)、聖武天皇の詔により志摩国にも国分寺が建立されることとなり、現存する志摩国分寺付近に伽藍が整備されたと見られる。志摩国は下国であるが故に、国分寺の建設には伊勢国・尾張国・三河国の正税を充て、これら3国の資金援助を受けながら国分寺を営んだ。しかし大同4年(809年)に国分寺・国分尼寺の僧尼を伊勢国分寺へ移したという記述が『日本後紀』にあり、半世紀ほどで廃寺となった。
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