南アフリカ委任統治領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:54 UTC 版)
「レホボス・バスター」の記事における「南アフリカ委任統治領」の解説
「南アフリカ領南西アフリカ」も参照 ドイツは南アフリカに降伏し、1915年7月9日にコラブで和平を締結した。南アフリカは、正式に南西アフリカの統治を引き継ぐと同時に、戒厳令を敷いた。また、治安の安定化を図るべく、部族長であるファン・ヴィックに対し、ドイツ人とのあらゆる対立を回避する様努める事と、家畜の損失やその他の問題をウィントフックの当局に報告する事を助言したほか、南アフリカ軍の警備隊を定期的にレホボスへ派遣する事も通達した。 第一次世界大戦の終結後、バスターは南西アフリカ一帯をバストランドの様なイギリスの保護国にする事を希望したが、南アフリカ側に拒否されただけでなく、嘗てドイツ統治下では認められていた自身達のあらゆる権利も剥奪される事となった。 一部のバスター達は、「レホボス自由共和国」の正当性と、共和国は国際連盟によって承認された事、更に国際法は、第一次世界大戦後に国際連盟が新国家の組織における原則として使用した民族自決の願望を支持した事からも、共和国は主権国家としての地位が認められる権利がある事なども主張した。1952年にバスターは、この趣旨の請願書を国際連合へ提出したが、国連からの返答は無かった。 この最中も、一部のバスターの指導者達は、新政党を旗揚げし、南アフリカによる統治を終わらせるべく、国連による介入を請願するなどの運動を展開した。また、かねてよりアパルトヘイトに反発していたオヴァンボ人や他の先住民族も、植民地主義の終焉を望んで連帯した。 南アフリカ議会は、1976年に「レホボス自治法」を可決し、バスターは正式に一つの部族であると認定され、一定の自治権を与えられる事になった。これに伴いバスターは、南アフリカ本国のホームランドと同等の扱いで、レホボスを中心に13,860平方キロメートル程の面積を定められた「先住民の黒人ではない民族のホームランド」たるバスターランド(英語版)に定住する様になった。 1981年の国勢調査では、南西アフリカにおけるバスターの人口は、35,000人弱にまで達した事が明記された。
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