南アフリカ共和国成立以後(1961年 - )
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「アフリカーナー」の記事における「南アフリカ共和国成立以後(1961年 - )」の解説
南アフリカ共和国のアパルトヘイト体制はイギリス人や他のヨーロッパ系白人をも最優遇する制度であり、少数民族である白人政権は、国外からの白人移民を奨励し、ポルトガル人などが流入した。他の人種は当初は参政権もなく、混血のカラード、インド系、黒人の順に、職業、教育、結婚、居住などあらゆる面で法の下の不平等によって搾取された。最底辺に位置づけられた黒人は最後まで参政権もなく、土地条件の良くないバントゥースタン諸国に縛り付けられたり、或いは生まれた土地から強制的に立ち退きを余儀なくされたりした。脱植民地化が進む時代に逆行するアパルトヘイト体制は国際社会から問題視されていたが、この制度によって経済的に利益を得たのはこの時代に生きた南アフリカの白人だけではなく、豊かな鉱山資源を安価な黒人労働力で採掘できた日本を含む西側諸国の資本と、それと結びついた関連企業も含まれていた。 政治的に白人至上主義を掲げ、それを実行した集団ではあるが、もちろん個々人には様々な考えをもつ人がいた。詩人/画家のブライテン・ブライテンバッハや作家のアンドレ・ブリンク、弁護士にして南アフリカ共産党中央委員のブラム・フィッシャーのように、アパルトヘイトに真向から反対する人も少数ながらいた。ブライテンバッハやフィッシャーなどは国家反逆罪で何年も獄中にあった。また、ユージン・テレブランシュのようにアフリカーナー抵抗運動を率いてアパルトヘイト死守を掲げた人物もいた。アフリカーナー抵抗運動などの極右グループは「ブール人」だけの国をめざし、準軍事組織(私兵)として現在も活動を続けている。
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