南アフリカ共和国における"Bantu"という言葉の使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/09 21:42 UTC 版)
「バントゥー系民族」の記事における「南アフリカ共和国における"Bantu"という言葉の使用」の解説
1920年代に、南アフリカ共和国の比較的リベラルであった白人や宣教師、一部のインテリな黒人が、国内のバントゥー系民族に言及する際に、"Native"や、より侮蔑的な言葉である"Kaffir"よりも "Bantu"の語を好んで使い始めた。 第二次世界大戦後、人種差別主義の国民党政府は、"Bantu"の語をアパルトヘイト政策で公式に使い始めたため、アパルトヘイト政策に対抗して活性化つつあったアフリカ人の民族主義運動 (African nationalist movement )とリベラルな白人の同盟者たちは、代わりに "African" の語を使いはじめた。 1970年代には、民族的、人種的な区分として"Bantu"の語は非常に不評であったことから、アパルトヘイトを行う政府は公的な人種の分類を"Black"の語へ変更し、バントゥー・ホームランド市民権法によりバントゥースタンへ強制移住させるなどバントゥー系民族の権利を一層制限した。その頃、スティーブ・ビコらに率いられた黒人意識運動(Black Consciousness Movement)は"Black"の語を、"南アフリカ共和国で抑圧されている全ての人種(アフリカ人、カラード、アジア系南アフリカ人)"の意味で定義した。 南アフリカ共和国における"Bantu"の語の慣用的使用法: 近年の南アフリカ共和国の政治家であり、かつてトランスカイの元大統領であった、バントゥー・ホロミサ(Bantu Holomisa)として知られるバントゥーボンケ・ハリングトン・ホロミサ将軍(Bantubonke Harrington Holomisa、バントゥーボンケとは、"全ての人々"を意味する複合語)を指す。 南アフリカ共和国のアパルトヘイト政府は当初、南アフリカ共和国の市民権からアフリカ人を締め出す目的で、"'バントゥースタン"'(Bantustans)の名を付けた10ヶ所の不毛且つ辺境の地域にアフリカ人を押し込み、限りなく偽りに近い形で自治権や独立権を与えようとした。なお、"バントゥースタン"の名はもともと、西アジアや中央アジアの様々な民族を指す"~スタン(-stans)"への類似を反映させたものである。この名称は不評であったことから、南アフリカ共和国政府は"エスニック・ホームランド"という、生まれ故郷でもない土地をホームランドと呼ばせる歴史的欺瞞に満ちた名称へと変更した。その一方で、この政策的不合理さを政府に理解させるための反アパルトヘイト運動は"バントゥースタン"と呼ばれる土地で起き続けた。 抽象的な名詞であり、人間性や他者への思いやりといった意味を持つubuntuは、ングニ語群に属するコサ語、ズールー語、ンデベレ語の名詞幹である-ntuに由来する。スワヒリ語におけるこの語の名詞幹は-ntfuであり、名詞はbuntfuとなる。 アフリカ南部のソト・ツワナ語群におけるbatho はングニ語群のabantuと同語源語である。この両語群はいずれもバントゥー語群に属するが、ソト・ツワナ語群のbathoは実質的に必ずしも-ntuの語幹と類似する必要がないことを例証している。初期の南アフリカ共和国のアフリカ民族会議はAbantu-Bathoと呼ばれる新聞を1912年から1933まで発行しており、英語、ズールー語、ソト語、コサ語でコラムを伝えていた。
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