千種延伸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 08:08 UTC 版)
1902年(明治35年)、今度は市街地の東方に中央本線千種駅が開業した。この千種駅の設置計画が表面化したのを機に、市では広小路通を東方、千種町の境界まで延長する計画が浮上する。広小路通の突き当りには当時愛知県庁があったことから、県庁を迂回するか、県庁移転の上で直線道路を敷くかで議論があったが、結局直線道路案で決定。県庁は1901年(明治34年)1月にやや北へ移転し、同年12月には道路整備が竣工した。 名古屋電気鉄道では、1902年(明治35年)10月10日付で栄町7丁目より千種町字五反田までの区間について軌道敷設特許を取得した。翌1903年(明治36年)1月31日、1.801キロメートルの栄町線延伸区間が開業に至る。名古屋電気鉄道では柳橋から分岐する押切線(1901年開業)に続く3番目の路線であった。終点の停留場名は千種(初代)で、この段階では笹島 - 千種間に10の停留場が設置されていた。 この時期までの路線の特徴として、線路が道路の北寄りに敷設され、複線の通行方法が左側通行ではなく右側通行であった点が挙げられる。後者は1906年(明治39年)3月に左側通行へと変更され、前者についても1910年(明治43年)に道路中央への移設がなった。また延伸区間の途中に位置する武平町の交差点(現・中区役所交差点)には、日清戦争の慰霊碑である「日清戦役第一軍戦死者記念碑」が1901年に建立されており、碑が1920年(大正9年)12月に覚王山日泰寺へ移設されるまで線路は碑の南側を迂回する形で敷設されていた。 千種延伸後、1908年(明治41年)2月に千種駅前通の整備が完成し、名古屋駅から千種駅までの東西貫通幹線道路が全面的に竣工した。遅れて1912年(明治45年)4月1日、栄町線も西裏(旧・千種)から先、千種(2代目、後の千種駅前)までの0.2キロメートルが延伸され、全線開通した。また同年5月に覚王山へと至る覚王山線が西裏まで到達し、栄町線との連絡がなった。
※この「千種延伸」の解説は、「名古屋市電栄町線」の解説の一部です。
「千種延伸」を含む「名古屋市電栄町線」の記事については、「名古屋市電栄町線」の概要を参照ください。
- 千種延伸のページへのリンク