労使紛争の再発
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1978年6月に社長に就任した松尾は、大規模な社内機構の改革に取り組んだ。1978年度決算は単年度黒字となったが、資産の処分などによる部分が大きく、安定的なものではなかった。このため合理化のためのワンマン化と不採算路線の廃止を進める方針となったが、従業員側は合理化の前に賃上げを要求し、1979年からはしばらく行われていなかったストライキが再発するようになった。1980年の春闘ではストライキが頻発し、ようやく交渉妥結したのが同年10月になるなど、労使関係は再び悪化していった。それは日常業務にも反映して乗務員の接客態度や車両の整備にも影響し、県民や利用者の県交通に対する不信感は増大することになった。 1982年6月23日には東北新幹線が開業することになり、新幹線連絡を目的とした特急バス運行計画が県外の各社も含めて進められていたが、同年の県交通では経営陣から示された合理化案に350人の希望退職が含まれていることから従業員側が反発、労使紛争の長期化により東北新幹線開業前日の6月22日までストライキが断続的に続く有様 で、労使紛争の状況からはとても高速バス事業に着手することは不可能であった。 なお同時期の県北バスは、経営努力に加えて「106急行バス」や高速バス路線の成功により、増収分からの内部補填が可能になったため国庫からの補助金を返上するなど、さらに安定した経営状態になっており、県交通とは対照的であった 労使の対立の中で、それでも合理化は進み、1985年には県交通としては初の高速バスとして「ヨーデル号」の運行に参入しているが、「ヨーデル号」は続行便も多数設定されるほど好調となった。また東北新幹線開業によって貸切バス需要も増大し、これらは県交通の収支改善にも寄与した。
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