労使協調、反蔣への転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 04:35 UTC 版)
孫文死後の1925年(民国14年)春、馬超俊は反共の孫文主義学会に加入し、総幹事に任ぜられた。翌1926年から海外に赴き、華僑に対して反共宣伝を行う。1927年の蔣介石による上海クーデター(四・一二政変)を受けて帰国し、南京国民政府労工局局長に任ぜられた。同年8月、上海で『労工時報』を創刊し、労資合作と反共産党系労働組合の宣伝を行っている。 1928年(民国17年)1月、馬超俊は広東省農工庁庁長に任ぜられ、秋には建設庁庁長に移った。翌1929年(民国18年)、国民党広州市党部宣伝部長を兼任する。同年5月、国際労働機関(ILO)に中国代表として出席した。帰国後、広東省政府主席陳銘枢と対立して広東省の各職を辞し、8月に立法院立法委員に任ぜられ、労工法起草委員会の召集人となっている。まもなく国民党華北党務特別員として天津に派遣され、反蔣派に対抗するための活動に従事した。同年冬に南京に戻り、国民党中央訓練部民衆訓練処処長に任ぜられている。 馬超俊は孫文の子孫科を支持しており、蔣介石による胡漢民軟禁事件が発生すると、孫と共に反蔣運動に転じた。満州事変(九・一八事変)に伴う各派大同団結のため、1931年(民国20年)末に蔣が一時下野し、孫科が行政院長になると、馬は南京市長に任ぜられている。しかし孫科はまもなく行政院長辞任に追い込まれ、馬も南京市長を退いた。1934年(民国23年)12月、馬は国民政府委員に任ぜられ、翌1935年(民国24年)3月、南京市長に再任する。
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